モスクワの幽霊とKGB
小川政邦


 ロシアの首都モスクワには幽霊の名所がいくつかあるそうです。登場する幽霊には歴史上の人物をはじめ、一般庶民はもちろん、小説の主人公まで名を連ねています。また、市の中央にあるソ連時代の国家保安委員会KGB本部、つまり秘密警察の総元締の跡の近くを通ると拷問に苦しめられた人々の断末魔の叫びが夜毎地下から聞こえてくるという話です。
 では、モスクワの新聞に載った幽霊案内地図を手に幽霊探訪を始めましょう。
 スタート地点はやはりクレムリン。ロシアの画家レーピンの名画『イワン雷帝と息子イワン』は500年ほど昔ここの主だったイワン雷帝が、口論のあげく激昂して息子のイワンを誤って打ち殺してしまい、われに帰って茫然と息子の頭を抱きかかえている様子、驚愕の目を大きくうつろに見開いた帝の狂おしい表情をまざまざと再現しています。
それかあらぬか、目撃者によると、慚愧に堪えぬ雷帝は今もクレムリンの大聖堂広場に建つイワン雷帝鐘楼に影のごとく姿をあらわし、その足音も聞こえるとか。そう言えば、江戸時代の三遊亭円朝口演の怪談「牡丹灯籠」でも、お露という娘の死霊が毎夜恋人新三郎のもとに通う情景があります。彼女の来る気配は刻々と迫るカランコロンという下駄の歩みで分かりました。一般に幽霊は足がないと思われていますが、絵になると足がないだけで、本来幽霊には東西を問わずちゃんと足があるのだそうです。
 また、歴史家の中には、イワン雷帝は19世紀末に後のロシア皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラの眼前に定期的に出没したので、二人は何か不吉な前兆と感じてすごいストレスいっぱいになったという説を唱えるひともいます。果たして、ニコライ2世夫妻は1917年の十月革命の後、ウラルのエカテリンブルグで銃殺され、最後のロシア皇帝になってしまいました。雷帝は二人に何を語りたかったのでしょうか。あの世でハムレットの父王とその件で反省の経験交流中かも知れません。
 クレムリンでは、生きている最中から幽霊になって縁(ゆかり)の場所に表れるいわゆる生霊いきりょうも出たということです。ロシア革命を率いたレーニンは刺客に撃たれてモスクワ東南35キロメートルのゴールキで療養中の1923年以後、存命中にもかかわらず革命の行く末を憂慮するその影がクレムリンの中をさまよっていたという証言もあるそうです。
 一方、レーニンの後継者スターリンは、1956年の第20回ソ連共産党大会でフルシチョフ第1書記が個人崇拝批判演説をして、クレムリン正面の廟から裏の壁の脇に遺体を移されたのをきっかけに、完全に永眠したらしく、スターリンをクレムリンの廊下で見掛けたひとはいないと報告されています。
 クレムリンに永住している幽霊は、近年観光客の急増でカメラのフラッシュにくつろぎの場を失い、相当疲れ気味のようだと言われます。
 さて、クレムリンを出てモスクワ動物園近くの小ニキツカヤ通りに行くと、ここにはスターリンの腹心でKGBを牛耳っていた内相ベリヤの屋敷があります。今はチュニジア大使館公邸になっていますが、スターリン死後間もなく銃殺されたものの、執念深いことで有名なベリヤはそのまま自分の旧宅に居座り、ときどき専用の黒塗りの乗用車がいずこからともなく迎えに現れてベリヤを乗せ、猛スピードでまたいずこへか走り去る姿がおぞましく、気味悪がられているということです。
 ベリヤが主人公だったKGBは市中央のルビャンカというところにありました。その地下深くには拷問室が多数あり、責め立てられる人たちの悲鳴や叫び声が今でも夜中に聞こえてくると言われています。しかし、その周囲には超強力な濃縮エネルギーがたちこめているうえ、恐ろしい過去の思い出がまだ余りにも鮮やかなため、幽霊の中でも理性的な幽霊たちはそこを避けて迂回するという話です。
 KGBと言えば、ソ連国内の治安維持のほか、海外の情報収集にも精力を集中し、これまでにもいろいろな話題を提供してきた組織として有名でした。晶文社が今度出した『KGBの世界都市ガイド』では、海外に派遣されていたKGB諜報員たちが在外勤務の経験を語っています。彼らの伝える海外での活動を読むと、読者は自ずと外国の諸都市をスパイの目で眺め直すような気持ちになってしまう不思議さがあります。そして諸国の首都には今も彼らの亡霊がさまよっているのではないかと思われるほどです。
 今日はこれくらいにして、モスクワの幽霊探訪の続きはいずれまたの機会にお伝えいたしましょう。

小川政邦(おがわ・まさくに)
1931年、大阪生まれ。54年、東京外国語大学ロシヤ語学科卒業。54〜59年、ソビエト・ニュース通信社勤務。59〜88年、NHK勤務。現在、創価大学教授。訳書に、E.ファインベルグ『ロシアと日本──その交流の歴史』(新時代社)、A.ミヤコン『ミヤコン回想録?「バクー・コンミューン時代」』(共訳、河出書房新社)、A.ヤーリン『遙かなるロシア』(共訳、ダイヤモンド社)などがある。