エンジニアの特性について
池内 了


 最近、技術者の倫理を考えたり議論する機会が増えた。製造物責任法(PL法)が施行され、技術に関わる事故や事件が頻発し、企業活動が国際的になって、技術者が持つべき倫理規範を問題とされるようになったためだろう。技術とは縁遠い私だけれども、「エンジニアの社会的責任とは」というようなシンポジウムでしゃべるよう要請される。そこで、自分が携わっている科学と比較して、技術はどんな点が異なっているかを考えるようになった。以下は、その要約である。
 私たちは、科学技術とか、科学者技術者と、一口で言ってしまうことが多いが、科学と技術は本質的に異なった営みである。まず第1に、科学は、純粋な物質(状態)を、理想的な条件下で調べることが常である(単純系)。それによって得られた知見は、いかなる環境であっても同じように成立する(普遍性)。これに対して、技術は、設計・製造・使用という3つの段階から成り立っており、「複雑系」を相手にしている。それらは互いに関係しており、1つの原因と1つの結果が1対1の関係で結ばれているわけではない。また、技術は、どこで製造するか、どこに建設するか、どのような場で使用されるかなど、極めて環境に依存する要素が高い。例えば、ダムを建設するおいて、川の水量・勾配・土質・生態系・雨量・山や海との位置関係など、立地現場の環境要因がすべて異なっており、本来はそれらに合った設計・施工がなされねばならない。また、同じ製品であっても、どのような気象条件下で使用されるか、決まった人間が使うのか、不特定多数の人間が使うのかなど、使用の段階でも環境が異なってくる。「複雑系」を相手にする技術の「風土性」とも呼ぶべき性格は、「単純系」である科学の「普遍性」とは際だった特徴と言えるだろう。
 第2に、科学は原理を極端に徹底する「原理主義」であるのに対し、技術には必ず「妥協」が伴うという大きな差異がある。ビッグバン宇宙論では、宇宙が膨張しているという事実をトコトン突き詰めて、宇宙が1点から始まったというような極限まで想像する。通常の物理学が成立しない状態を平気で考えるのだ。これに対し、技術には「コストと安全性」という矛盾をいかにクリアするかが常に問われる。完全に安全なものを作ろうとすれば、コストも工期も無限にかかる。そもそも、完全に安全な建築物や飛行機は存在し得ないし、できたとしても使い物にならないだろう。従って、ある種の基準をおいてコストと安全性の「妥協」を図らねばならない。従って、「安全性が証明されていない」ものを作らざるを得ないのである。そこには、技術の原理だけではなく、社会的合意のような別の要素が大きい役割を占めるから、技術者は、科学者のようなオタクに留まることができないのだ。
 第3に、科学者は、誰に頼まれるわけではなく個人の好奇心から研究をし、公衆の健康や安全と直接関係しないことが多い(原爆の開発のような例外もあるが)。これに対し、技術者は、企業の被雇用者であるとともに、注文を受ける被依頼者であり、そして公衆の安全や健康に責任を持つ、という3重の契約者である。技術者は、被雇用者として会社や上司に従う義務を持ち、被依頼者として守秘義務を持つとともに、他社との競争も意識していなければならない。これら被雇用者と被依頼者としての技術者は、具体的な雇用契約や発注契約によって制限を受ける存在である。さらに、技術者は、その製品が安全であり、健康に害を及ぼさず、性能通りにちゃんと機能する、という公衆との間に信頼関係が結ばれなければならない。この信頼関係は、これまで暗黙の内に仮定されてきたが、それを具体的な形として示そうというのが技術者の「倫理規範(倫理綱領)」なのである。
 以上のような特徴を眺めてみると、技術は、人体実験と似た、「社会的実験」という要素もあると言えるだろう(マーチンとシンジンガーの議論)。部分的な知識の下で(「安全性は証明できない」)、結果が不確定で(「複雑系」)、個々の製品の特性や環境に依存した側面が多く対照実験ができない(「風土性」)、そして人間(公衆)の安全や健康と深く関わっている、からだ。であれば、患者への医師のインフォームド・コンセントに対応するものが技術者にも必要となることは明白だろう。それが技術者の「倫理規範」を必要とする基本理由ともなっている。
 と、技術のさまざまな側面を考えると、技術者に対し、専門家としての使命感と倫理(プロフェッショナル・ディシプリン)が要求されることがわかる(むろん、オタクになりがちな科学者には、マッド・サイエンティストにならないために、いっそう真剣に倫理規範を考える必要があると思う)。
 21世紀は、さらに科学・技術の成果が私たちの生活に入り込み、生命の操作が平気で行われかねない。私たちは、その実態をしっかりと把握し有効に対処しなければ、科学・技術にこき使われる存在になってしまうだろう。私が科学者や技術者の倫理規範を考えようと言う理由は、科学・技術を暴走させないためであるとともに、その恩恵と厄災を受ける市民が自律的に科学・技術と携わっていくことが重要と考えるためである。子どもたちの「理科離れ」が云々されるが、実は日本では「大人の理科離れ」が顕著な国なのである。実際、いわゆる先進国の間では、日本人は科学・技術への関心が最も低いことがデータによって示されている。
 その原因の一端は、科学の内実をちゃんと伝えてこなかった私たち科学者にあると考え、科学・技術にかかわる事件や事故があるたびに、私なりの見解を書いてきた。それをまとめたのが、今回出版された『科学は今どうなっているの?』である。時間の流れが加速されているため、事件はすぐに風化してしまう傾向にあるが、やはり「過去に目を閉ざしていては未来も見えない」ことになる。同時代に起こったことを吟味しつつ、未来の在り様を考える材料になれば、と願っている。

池内了(いけうち・さとる)
1944年生まれ。名古屋大学大学院教授。星、銀河、宇宙の起源と進化について、独創的な理論を展開する国際的な天文学者。著書に『わが家の新築奮闘記』(晶文社)、『お父さんが話してくれた宇宙の歴史1〜4』(岩波書店)、『泡宇宙論』(ハヤカワ文庫)ほか多数。6月末に『科学と文学のあいだ』を廣済堂出版より刊行予定。