下巻立ち読み

第一部 囚われの家


第一章 アタヘイでの赤子盗み

 かつて、山々から海へと続く大街道のはずれの弓なりになった土地に、高い石壁に囲まれたアタヘイという市場町があった。
 その町の近くに、だれもその本当の奥深さを知らぬ森があった。そこに足を踏みいれた者は、数こそ少なかったが、きまって不思議な冒険の物語を持ち帰った。
 そこには街道も抜け道もなく、役人も番人もいなかった。そこの産物をアタヘイに持ちこむ行商人もいなかった。そこでなにかを漁るほど、アタヘイの人間は貧しくも勇ましくもなかったからだ。そこに逃げこもうとする無法者もいなければ、そこに庵を構えるほど聖人の守護を信じられる人間もいなかった。
 というのも、そこは怖れてあまりある場所であった。悪霊が徘徊していると言う者もいた。異教の女神が出没するのだと言う者もいた。あるいは、妖精だと言う者もいた。ただし、人をだます意地の悪い妖精なのだと。だが、もっとも広く信じられていたのは、茂みの中に多くの悪鬼が棲み、ひとたびその木々に囲まれたが最後、どこに向かっていようと、それが地獄への門となるということである。そのため、そこは魔の森と呼ばれていた。
 とはいえ、市場町はそれなりに栄えていた。魔の森をさまよい歩いているのがいかなる悪魔であろうと、人にそれとわかる姿でアタヘイの町に現われることはせず、人も魔の森の悪鬼ほどに恐ろしいものを想像したことはなかったからである。
 この市場町に市が立ったある日の真昼、にぎやかな市の人ごみのなかに、ひときわ背が高く、たくましい一人の女の姿があった。三十の冬を越したとおぼしきその女は、髪が黒く、鷲のように曲がった鼻先と鋭い目を持ち、お世辞にも気品を漂わせているとは言えなかった。女は、市での売り物を背負った大きな灰色のロバを引いていたが、すでに商売を終え、客に店じまいを告げるかのようにあたりを見回しているところであった。だが、子供を見つけると、それが腕に抱かれていようと、身内の女に手を引かれていようと、あるいは独りで歩いていようと、急にその目を光らせ、まじまじとその顔を見るのだった。
 女がゆっくりと歩きながら人のまばらなところまで来たとき、その目の前に赤子が現われた。ようやく冬を二つ越したくらいの子供であり、その小さな体にほとんどぼろ切れすらまとわずに這い回っていた。女は子供の動きを目で追っているうち、石段に座っている女の姿を認めた。近くに人の姿はなく、その首は、悲しみに打ちひしがれているかのように、膝の上に垂れている。幼子は楽しげに声を発しながら女の上によじ登り、その足に手を置くと、衣服のひだに顔を埋めた。彼女は目を上げ、かつて輝くばかりの美しさをたたえた顔をあらわにした。顔はやつれ果てていたが、年のころは二十五を過ぎたくらいであった。女は子供を抱え上げて胸に抱き、顔と手に接吻をしてあやしたが、その顔から悲しみの色が消えることはなかった。背の高い異郷人は女をじっと見つめ、女が貧しい身なりをしていること、市のにぎわいに与していそうにない人間であることを知り、苦々しい微笑を浮かべた。
 ついに背の高い女は口を開いたが、その声は顔から想像できるほど荒々しいものではなかった。「ねえ、娘さん」と女は言った。「あなた、ほかの人たちほどお忙しくはなさそうね。ぶしつけなお願いだけど、この町のどこかに少しの間だけ休める部屋はないかしら。いやな男どもにわずらわされずに、疲れを癒し、軽い食事が取れればいいんだけど」
 貧しい女房は言った。「なにもお教えすることはできません。私は貧しすぎて、宿も飲み屋も知らないのです」すると、もう一方の女が言った「知り合いの方に頼んでいただけないかしら」若い母親は言った。「夫が死んでからというもの、どこに知り合いがおりましょう。私もじきに植えて死にます。この冷酷な富の町で」
 ロバを連れた女はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「かわいそうに! あなたが哀れに思えてきたわ。でも大丈夫、あなたの前に幸運が訪れたのよ」
 すると、貧しい女房は子供を胸に抱いたまま立ち上がり、くるりと向きを変えて歩きだした。だが、異郷の女はその女房を引きとめ、「しばらくそのままで、よい知らせをお聞きなさい」と言った。それから、その手を腰の巾着に入れると、そこから光り輝くノーブル金貨を取り出した。「私がお宅にお邪魔するかわりに、これを差し上げましょう。そして、もし気持ちのいいおもてなしをいただければ、同じものをさらに三枚差し上げましょう」
 女が金貨を見下ろしたとき、その目からは大粒の涙がこぼれた。だが、女は笑いながら言った。「もちろん、しばらくお休みになる部屋をお貸ししましょう。井戸水もあるし、ネズミが食べるくらいのパンはあります。それで金貨三枚に見合うとおっしゃるなら、お断りする理由はありません。それでこの子の命が助かるのですから。でも、ほかになにかお望みはないのですか?」
 「それだけで結構よ」と異郷人は言った。「それじゃ、お宅に連れていってくださいな」
 そこで女たちは市場を出た。若い女房はロバを連れた異郷人を先導し、魔の森に面したアタヘイの西門を抜け、かの森の一角に近接する、壁のない雑然とした街路に入った。そこに並ぶ家は特別ひどいものではなかったが、悪魔の園に近いところには金持ちは近寄ろうとせず、貧乏人だけが住んでいた。
 女は自宅のドアの掛け金に手をかけ、さっとドアを開けた。それから女は客に向かって手を差し出した。「ここで一枚目の金貨をいただけますか? お望みどおり、ひとときの休息だけはお約束できますから」ロバの主が金貨を渡すと、女はそれを赤子の頬にのせて接吻を加えた。それから女は異郷人のほうを向いて言った。「干し草も穀物もないので、ロバのお世話ができませんので、外に置いていただくほかはありません」異郷の女はうなずき、母親と子供と異郷の女の三人は一緒になかに入った。
 部屋が狭いわけではなかったが、家財といえるものがほとんど見当たらなかった。あるのはただ、腰掛けとイチイの椅子が一脚ずつ、それに小さなテーブルとひつだけであった。暖炉に火はなく、灰と化した小さな薪が転がっているだけだったが、すでに六月、火を起こす必要はない。
 客がイチイの椅子に腰をかけると、貧しい女は子供をそっと床に下ろし、言いつけを待つかのように客の前に立った。
 異郷の女は言った。「この部屋は汚くもないし、窮屈でもないわ。そしてこの赤ちゃん、女の子のようだからまだずっとここで暮らすのでしょうけど、とてもかわいいし、肌もきれい。これからいいこともあるでしょう。お祈りするわ」
 女が優しく甘い声でそう言うと、貧しい女房の顔は和らぎ、まもなくその目からテーブルの上に涙がこぼれたが、その口から言葉は出てこなかった。すると客は三枚ではく、四枚の金貨を取り出し、それをテーブルの上に置いた。「さあ、約束どおりの金貨三枚、もうあなたのものよ。だけど、最後の一枚は私のために使ってくださいな。町に行って、最高の白パンを買ってきてちょうだい。それと、肉。鳥肉でもいいわ、調理と味付けの済んだものをね。それから、極上のワインと、赤ちゃんの砂糖菓子もお願いするわ。買い物から帰ってきたら、一緒に食事をしましょう。そしてお腹いっぱいになったら、あなたを幸せにする術を考えましょう」
 女はひざまずいて泣いたが、胸が一杯で一言も話すことができなかった。女は客の手に口づけをし、お金を取り上げ、それから立ち上がって子供を抱き上げてその裸足の足に何度も熱い接吻を与えると、急いで家を出、門から町中に入っていった。客は座ったままその足音が消え去るまでじっと耳を澄ましていたが、やがて遠くの市場のにぎわいと床の赤子の声以外なにも聞こえなくなった。
 客は立ち上がって床から子供を抱き上げると、子供は足をばたつかせて大騒ぎをし、途切れ途切れの声で母親の守護を求めた。だが、異郷の女は優しい声で「いい子だから静かにしてね。お母さんを捜しにいきましょう」と言うと、巾着から取り出した糖菓を子供に与えた。それから女は家を出ると、甘い声で子供に言った。「ほら、かわいいロバでしょう! これにのってお母さんを捜しにいきましょうね」
 それから女は、子供が気持ちよく乗っていられるように、荷かごの底に布団を敷いてそこに子供を入れ、その上に絹の布を掛けた。そしてロバの手綱を取ると、魔の森に向かって荒れ地を進んでいった。おわかりのとおり、道と街路が消えたところから先は、踏みならされた道すらなかったのだ。(つづく)

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