一九七九年十二月、植草甚一は七一歳でこの世を去った。彼が所有していたコレクションのほとんどは、オークションなどでファンの手に渡っていったが、四千枚近いレコードだけは、散逸することなく一人の男によって引き取られた。いまや伝説となったこの話もふくめて、J・J氏について語ってもらった。第7回目のゲストは、おなじみのタモリ氏の登場だ。

 タモリと赤塚不二夫さん、そしてぼく、滝大作さんの出逢いは、ある意味では神話・伝説化された部分があって、いまさらその当時のことを記述する気にあまりなれない。ぼく的に言えば、七五年に『宝島』を辞めて雌伏していたぼくを高信太郎さんが東京ヴォードビル・ショーの公演に誘ったように、タモリの現れる『ジャックの豆の木』に誘ったのがきっかけと言える。
  タモリは山下洋輔さんの誘いで、その年上京し、長谷邦夫さんの連れて来た赤塚不二夫さんのお宅に居候するようになる。ぼくはそこで奥成達さんや山下洋輔さん、坂田明さんと親しくなる。七六年二月に『ジャック……』の連中で『チャンバラトリオを銀座で観る会』というイベントを企画。この司会をタモリがやった。すでに前年、赤塚不二夫さんの出演番組に数本登場し、一部では話題になっていたのだ。このイベントの司会で、四月から12チャンネルの『空飛ぶモンティ・パイソン』のレギュラーが決った。あとはトントン拍子である。七七年一月にぼくの最初の本の出版記念会の司会もタモリがしてくれた。このとき、植草さんは披露宴の仲人のようにパーティーの終わった出口でぼくの夫婦と並んで、出席者に挨拶して下さった。

■とにかくジャズが最高な時代だった

植草さんを知ったのはいつ?
 植草さんのものを最初に読んだのは、大学のモダンジャズ研究会に入ってからだった。単行本じゃなくて『スイング・ジャーナル』か『話の特集』だったかな。正体がわからなくて気にはなっている人なんだよね。
 植草さん、モダンジャズ研究会の顧問だったんだよ。ほとんど来ないけど(笑)。だから、学生時代に実物は一回だけ見たことがある。学園祭だと思ったけど、来てくれて、討論会をやってね。俺は入学した年だったから、そんなのに参加させてもらえず、下働きばっかりだったからね。ちらっとお見かけしただけだった。

 あのころは本なんて読まなかったね。一年生のときは、授業関係の本は読んでいたけど、それで精一杯だったかな。他はあんまり読んでないね。高校のときから、フィクション、とくに小説が大嫌いで、何年間か全然読まなかった。
 とにかくジャズが最高な時代だった。ジャズが最高なんだ、芸術なんだと。他の音楽なんてあんなものは芸術じゃないって思っていた。ライヴはね、行く金なかったのよ、貧乏だったからね。とにかくジャズ一辺倒で、他のものはまったく聴かなかった。連絡場所の喫茶店と部室に行っているぐらいでダラダラダラダラしてた。別にトランペット練習するわけじゃなし。そのうちにいろんな用頼まれて「お前こっちの授業出てこい」とか言われて先輩の授業代わりに出て暗くなると新宿へ行っちゃう。映画も観なかった。ジャズだけなんだよ。だから、あの何年間っていうのは、なにが流行っていたとか、世の中の動きって何も知らない。
 ジャズはとにかく、マイルス。高校の終わりぐらいから、こんなにぴったりくる音楽があるものかと思った。それまではいろいろ聴いてたのよ。邦楽からチベット音楽から、ぜんぶ聴いてた。でもぴったりこない。姉がピアノやっていたし、クラシックも一通り聴いたけどぴったりこない。いちばん最後に聴いたのが、どういうわけかジャズだった。モダンジャズだった。だからもう聴きたくて聴きたくてしょうがないんだよね。ディキシーも聴いたけど、やっぱりコンボだったね。それ以外はもう音楽じゃない、芸術じゃないと。いや、ピアノ・トリオはいい。ピアノ・ソロもいい。どうってことない、モダンジャズならなんでもよかった。
 植草さんが『ビッチェズ・ブルー』を評価したってことは、マイルスでもコンボでばりばりやりあうっていうよりも、きちっとした、コンセプトがあるようなやつが好きなんだ。俺はね、マイルスの変貌のときはついていけなかった。その当時は、どうしたんだろう、なにをやりたいんだ、この人はって。わかんなかったよ。ずいぶん後になって、聴き返して、やっぱりすごいことやってんだなとわかったけどね。いま聴くとすごいんだろうな。
 その後、福岡にもどって、サラリーマン時代は、会社さぼって行ってたね。ライヴハウスじゃなくて、ジャズ喫茶に行っていた。夏は会社さぼってヨットに乗って、冬はジャズ喫茶っていう生活にひかれていた。
そして、その頃に山下洋輔さんに出会って、現在に至る。

■レコードをジャケットで買ってるんだよね

七九年植草さんが亡くなって、本は片岡義男さんの知り合いの渋谷の古本屋が引き取った。コラージュやブティック類は、イベント会社が『植草甚一展』を開きファンの手に渡った。レコードだけはばらばらにしたくないというぼくの気持があって、周りでいちばん金持ちになったタモリになにも言わずに全部でいくらということで買い取ってもらった。四千枚近くあったと思う。生命保険にも入っていなかった植草さんの梅子夫人に、ぼくらは一円でも多く渡るように努力した。せめてレコードだけでもという一ファンの願いがタモリのおかげで叶ったのである。

 うちにそっくりありますよ。ジャズのレコードに詳しいやつがいたんで、俺の分も含めて、全部整理させたの。そしたら、俺なんかわからなかったけれども、さすがに貴重なのがかなりあるんだよね。それはまぁいいんだけれども、そいつが「このレコードはどういうレコードかわからない」っていうのもあるんだよ。俺が見ても、もちろんわからない。ジャズじゃなくて、聞いたことないようなグループのロックやカントリー、クラシックのものもある。わけのわからん国籍不明のやつもある。だからジャズ以前はあんまりレコードに関して興味なかったんだよ。たいして聴いてなかったんじゃないかな。
 それで俺は思うんだけども、ジャケットだな。ジャケットがおもしろいとかで、買ってるんだよね。変わったジャケット、見たこともないようなジャケットがある。パイプ用の煙草の葉っぱを入れる缶があるじゃない。あれを大きくして、30センチのLPが入るようにしてある、そういうデザインなの。『ベンソン・アンド・ホッチス』とか、ああいう感じの。開けると、三枚組か二枚組のLPが入ってるんだけど、わけわかんないジャズのもの。もう完全にジャケットだね。
 植草さん、どちらかっていうと、乱暴だね。すごく乱暴に聴いてる。なんで一面にこんな傷あるのっていうくらい。片面三曲全部に傷があるんだよ。某国営のFMに持って行って、かけたことあったのよ。持って行ってかけると、きれいにしてくれるの、機械があって。
 こういうこと言っちゃなんだけど、ほんとにジャズが好きだったかどうかっていうのもね(笑)、ちょっと疑わしいかもしれないよ。確かに興味はあったらしい。ジャズ周辺の風俗的なものが好きだとか。そのついでに、ちょっと聴いていたのかもしれない……。

■俺たちの世代のシンボルだった

植草さんのレコードコレクションを見て植草さんが見えてくるということはある?

 ないね(笑)。ばらばらな人で、レコードを大切にしない。それで、ほんとにこの人はジャズが好きなんだか、ちょっと疑いたくなる。ジャズ周辺の風俗とかいうのは好きだったんじゃないかっていうような(笑)。 
 俺の、まぁ、俺たちの世代といったら語弊があるかもしれないけども、ジャズを知ってからの何年かの期間っていうのは、明治時代でいう「脱亜入欧」だね。やっぱり日本は、日本のものはダメなんだって日本的なものを、もう全部否定する。やっぱりアメリカのものがすごいんだ、ヨーロッパのものがすごいんだって。ジャズを知ってから何年間は、そういう思想なのよね。そういう何年間のときに、植草さんを知ったもんだから、やっぱり憧れるんだよな、こういう人がいるんだって。完全に西欧のものでしょう。シンボル的な人だったんだよね。俺たちの世代は植草甚一って言うとつながるね。そうなんですよっていう話になるだよね、あの世代はね。


タモリ
1945年8月29日福岡市に生れる。早稲田大学文学部哲学科中退後、福岡で保険会社セールスマン、ボーリング場支配人兼駐車場責任者、喫茶店の雇われマスターなどを経験。75年、山下洋輔を頼り上京。その後、奥成達曰く『密室芸』で新宿のスナック『ジャックの豆の木』の客を沸かせ、「おもしろいからうちへおいで」と誘われた赤塚不二夫宅に約一年間の居候。77年4月より初レギュラー番組『空飛ぶモンティ・パイソン』(テレビ東京)。以後、『今夜は最高!』『タモリ倶楽部』『笑っていいとも』などの人気番組でおなじみだ。アルバムも3枚リリースされている。 
高平哲郎(たかひら・てつお)
1947年東京生まれ。一橋大学社会学部卒業。広告代理店、雑誌『宝島』編集部をへてフリーランスとなる。74年より、アイランズ主宰。テレビ番組の構成、ステージ・ショー、芝居等の演出、および編集者として活躍。著書に、『星にスイングすれば』『話は映画ではじまった PART1男編』『同 PART2女編』『スタンダップ・コメディの勉強』(以上晶文社)、『みんな不良少年だった』(河出文庫)、『由利徹が行く』(白水社)などがある。