高橋 徹(月の輪書林店主)

 某月某日
 三田平凡寺(本名・林蔵)という明治・大正期の趣味人について調べている。
 調べるといっても、『三田平凡寺伝』を書くためではない。趣味で調べているわけでもない。
 ぼくは、古本屋。古書目録を出して食っている。来春に出す特集目録の主人公を三田平凡寺でいくぞと決めて調べているのである。
 調べていないで、すぐさま手持ちの本の書名を書けばいいのだが、そうはいかない。
 肝心かなめの主人公・三田平凡寺のことがよくわからないのだ。よくわからないならやめればイイ話だが、実はもう三田平凡寺が、ぼくの店にやってきて出番を待っている。
 去年の秋、九月の何日だったか、ぼくは、古本市場で平凡寺に会った。唐突に。つまり、平凡寺の旧蔵書が、何の予告もなく市場にあらわれたのだ。無我夢中で入札した。何年かぶりにここにあるものすべてを買い占めたいと思った。思いと現実には大きなギャップがある。落札できたのはほんの一部だ。市場は甘くない。もう一度、あの市場の再現をと今もって願うのだが、人生はやり直しはきくが、市場は、ダメだ。一瞬の幻だ。いくら悔やんでもおそい。
 店で出番を待っている平凡寺は、あの時のものだ。これで闘うしかない。どう工夫したら面白い古書目録がつくられるかと試行錯誤の日々を送っている。
 こんな失敗もした。
 ある日、「平凡」と名のつく本や雑誌を片っ端から蒐めてやろうかと思いついた。手元から離れて久しい戦前の雑誌『平凡』(平凡社)のことなど想い浮かべて市場へ行ったら、「平凡」な作家源氏鶏太の若き頃の自筆日記(昭和五年)が出品されていた。
 目録の遊びとして面白いんじゃないかと自分の考えに酔って、つい力が入りすぎて落札、懐から四十万円がヒラヒラと飛んでいった。身銭を切っての遊びは、なかなか痛いものがある。
 しかし、源氏鶏太になる以前の田中富雄(本名)青年が“プロレタリア詩”を書いていたのにはホントびっくりした。その驚きを正直に数字にあらわしたら四十万円ということになったのだけれど、肝心の自筆本『田中富雄詩集』は、負けてしまって泣き別れ、こっちの方がホントは痛かった。あたり前のことだが、源氏鶏太にも熱い青春があったんだと思うと、この日記、大切に売らないといけないなあ。

 某月某日

 平凡寺に本格的な伝記はない。自伝もない。自伝ではないが、インタビュー記事を一つみつけた。
 平凡寺とは何者か? 平凡寺の言葉にきいてみよう。
 題して「骸骨と寝る」。雑誌『グロテスク』復活紀念号(昭和6年4月発行)からだ。
 平凡寺、時に満五十四歳。


 私は十五歳から今日まで、殆ど毎夜一時二時迄読書して居ます。
 書物の種類は、三馬、京伝、馬琴、一九の全部、西鶴は五分の一位、近くは紅葉、鏡花の全部、浪六は三分の二、緑雨、漱石は全部、探偵小説は日本にあるものは全部、随筆物はあらゆるもの、経文でも、やはり唄でも手当り次第に読みます。
 鏡花、漱石のものなぞ一冊を十数回も繰返し読みました。
 唯、悲劇物は読まぬことにしてゐます。名士のものは年中目を通してゐます。然し現代の所謂、大家の小説は敬遠してゐます。
 我楽他宗設立以来十余年間、一銭の寄附も勧誘せず、奉納も勧誘せずに押し通したのは、我が我楽他宗のみです。
 それでも、現在では真の宗員約二名、宗員には外人も相当に居ります。博士も学生も侯爵も鳶も左官もミズ転も待合の女将も、何でも御座れで、趣味に生きる人達、宗の意を体するものは誰でも来い、来る者は拒まず、去るものは追はず、これが私のモットーです。(中略)
 世間には色々と、誤記誤報されてゐますが、私の真意は人類改良、無病長寿、××(伏字) 改良にあるのです。
 平凡寺のお守札の梵字の意味も、きけよ見よ、をしてしゃべりて我ままに、自由自在の心知れかし。みるべき目、きくべき耳、それを見まい、きくまいの猿の教へを、今一歩進めて、正しき事を正しく聴く耳の持主になれといふ意味です。

 なるほど。でも、平凡寺の真意を何度読み返しても、正直なところ、一筋縄ではいかない男と思うばかりだ。平凡寺自身、このインタビューでこんなことも言っている。


 之までに色んな方面の新聞、雑誌に百五六十回も載り、百種は百種、どれもこれも見方が変って、或る時は狂人になり、或る時は八十歳位の老翁になり、仙人になり、俗人になり、傑物になり、山カン野郎になりで、あんまり種々な風に評されたので、終には平凡寺はどこかへ消えて無くなる奇現象を呈することになりそうです。
 人間もここまで来なくてはホントウの面白味は出ないものです。


 ただものでないことだけは確かだ。


 某月某日
 明日の外骨忌(没後五十年)にちなんで、『公私月報』(宮武外骨編発行/昭和5〜18年)の復刻合本を読む。
 奇人と言われた外骨と平凡寺、二人の仲は果してどうだったのかということが気になって仕事を放り出して、「平凡寺」の文字を追いかけることにした次第。ちなみに、外骨は、慶応三年(一八六七)生まれ、平凡寺は明治九年(一八七六)だから年は、外骨が十歳上(とうとしうえ)。
 連載の「公私混合日記」を読むと、家族ぐるみのつきあいもあったようで、外骨夫妻で高輪の平凡寺を訪ねる記録がちょいちょい出てくる。外骨の妻・和子の告別式(昭和十五年二月十八日)に平凡寺は妻と共に会葬に列している。
 それはさて、外骨と平凡寺のほほえましい交流をつたえる一日を写しくってみる。昭和十三年十二月十一日の「公私混合日記」から。

 高輪の平凡寺和尚三田知空師を訪問し丈三尺余の珍な長瓢箪を貰ひ、帰途田園調布へ廻り藤本天外子を訪問、電車内で乗客に奇瓢の事を推問され、新宿駅では警察官が追駆け来り、それは何ですかと怪まれた。帰来床の間の飾りとし、白墨で賛を書くことにして居る

 珍奇なひょうたんを持ち歩く外骨を頭に思い浮かべただけでホンワカした気持ちになる。手持の年表に「東大教授河合栄治郎の四著書発禁」とあるのは二カ月程前。
 時代の風を二人はどんなふうに感じていたのだろうか?
 某月某日(←*太ゴチックにしてください)
 外骨忌(於染井霊園)。参会者は二十人程。外骨の墓前に「今度、平凡寺のことを古書目録で特集します」と報告する計画だったのに、手をあわせただけで忘れてしまった。
 来年、平凡寺特集号を墓前に持って行こう。いや外骨のことだ。「それでワシの特集号はいつ出るんだ」とカラマレそうだからやめておくか。
 主宰者の吉野孝雄さんから没後五十年を記念してと「外骨模様」の手拭いをいただく。浅草のお清めの席で泥酔。
 帰宅午前一時。

(『出版ダイジェスト』2005年9月1日号より)