1 ―― 出発

 サイモンとガーファンクルが一九六八年に発表した『ブックエンド』というアルバムのA面三曲目「アメリカ」は、タバコ一箱と“ミセス・ワグナー”のパイを買ってふらりと「アメリカを探しにゆく」旅にでる恋人たちの歌だ。「アメリカを探しにゆく」と言っても、この曲の主人公は移民や亡命者ではない。ニュージャージー・ターンパイクを走る車を数えていたら、なぜだかわからないけど自分が「空っぽ(エンプティ)」に感じられてきた、という印象深い歌詞は、一九四一年にニュージャージー州ニューアークで生まれ、ニューヨークのクイーンズ区で育ったポール・サイモンにとって自伝的エピソードでもあるはずだ。
 ニュージャージー・ターンパイクはニューヨークとフィラデルフィアというアメリカ建国時の二つの「首都」と、現在の首都ワシントンDCを南北に結ぶ、東部の重要な回廊となる有料の高速道路であり、一九四八年に設立されたニュージャージー・ターンパイク公社によって計画され、五二年にその最初の区間が開通した。公社の初代総裁はW・W・ワナメイカーという名の陸軍の退役軍人だった。
「アメリカを探しにゆく」という言い回しが意味するのは、アメリカ合衆国で生活している者たちにとって、「アメリカ」が一つの抽象概念であるということだ。つまり、ユナイテッド・ステイツとアメリカとの間には、深い亀裂が走っている。ニュージャージー・ターンパイクは合衆国建国時の東部十三州の統合を象徴するような道路だが、アメリカは同時に、建国の初めから「西向き」の運動を内包していた。この西漸運動は合衆国建国後も「明白なる運命」と呼ばれて継続され、その過程では多くのネイティヴ・アメリカンやその他の先住民の血が流され、彼らの土地が奪われた。
 多くの戦いの結果として一八九〇年に陸のフロンティアが消えたとき、その先に横たわっていた海は、皮肉にも「平和の海」という名だった。この大海をひたすら西に進んだ先には、ハワイ諸島があり、ミッドウェイ諸島があり、さらにその先にはタツノオトシゴみたいな形にねじ曲がった、われらが日本列島がある。

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 アメリカ合衆国と日本が国家レベルで最初に邂逅したのは、いまからおよそ一五〇年前、一八五三年のペリー来航の際である。忘れられがちなことだが、このときペリー艦隊は太平洋を西に向かってやって来たわけではない。
 一八五二年一一月二四日にアメリカ東海岸のヴァージニア州ノーフォークを出航した艦隊は、大西洋を東に横切り、ポルトガル沖のマデイラ諸島から南下を始め、セントヘレナ、ケープタウンを経てアフリカ大陸の南端を越えたのち、北東に進路を変えてモーリシャス、セイロンを過ぎ、シンガポール、マカオ・香港、上海、琉球、小笠原と回ったすえに、日本の元号でいえば嘉永六年の六月三日(新暦七月八日)にようやく浦賀に来航した。アメリカ東海岸を出航してから片道で約半年の旅である。翌年に日米和親条約締結のためペリーは再び来航するが、トンボ返りのような往復旅行だったに違いない。その間、日本ではたっぷり一年の月日が流れていた。一五〇年前、日本とアメリカとの間のリアルタイムにはそれだけの「時差」があった。
 国内のフロンティア消滅後、アメリカは一八九八年の対スペイン戦争に勝利してフィリピンとグアムを領有し、ハワイを併合する。アメリカの西へ向かう運動は太平洋を越えつつあったが、ハワイ以西の北太平洋には領有するに足る島嶼がなかったことも幸いし、その舞台となったのはおもに日本を遠く離れた北回帰線以南だった。
 アメリカ合衆国が国家的な意志をもって日本を指してまっすぐ西向きの運動をおこなったのは、第二次大戦における“太平洋の戦い”(私たちのいう「太平洋戦争」)開戦の翌年春の「ドーリットル空襲」がおそらくは最初である。もちろんこれは、日本にとっても史上初の東方に向けた軍事行動だった前年暮れの真珠湾攻撃に対する、「東方の国」アメリカからの最初の返答でもあった。
 一九四二年四月一日、ジェームズ・H・ドーリットル中佐率いる空爆部隊を積んだアメリカ合衆国太平洋艦隊の航空母艦ホーネットはサンフランシスコのアラメダ基地を出航し、太平洋を西へと向かった。のちに日本の主要都市を焦土にするロッキード社の長距離戦略爆撃機B29は当時まだ実用化されておらず、日本本土への出撃拠点となりうる南西太平洋の島嶼も日本の支配下にあった。そこでこの作戦には、空母から出撃となるにもかかわらず、航続距離の長い陸軍の爆撃機ノースアメリカンB25が起用された(その後も合衆国の戦略爆撃において主役となるのは、すべて陸軍の爆撃機である)。
 四月一八日、日本列島東方沖合一二〇〇キロにまで近づいた空母ホーネットから飛び立った一六機編隊のB25は、東京・川崎・名古屋・四日市・神戸などを爆撃したあとも航路を西に保ち、不時着した一機を除く一五機が中国大陸まで到達した。米軍側に戦死者一名、行方不明者二名、日本軍の捕虜になった者八名、うち処刑死三名、病死一名を出したこの作戦は、西行きの片道攻撃だった。アメリカはおそらく、このときはじめて自分たちの「西」にある国日本を、生々しい実感とともに眼下の敵として捉えたのである。一九四五年三月の東京大空襲、八月のヒロシマ、ナガサキへの「リトルボーイ」「ファットマン」投下は、この西向きの運動のひとつの終着点だった。
 にもかかわらず、第二次世界大戦に勝利を収めた後のアメリカ合衆国は、戦後の日本を「極東 fareast」として位置づけ直す。事実、欧米圏で使用されている一般的な世界地図はその右端に日本列島を配置している。大航海時代に彼らによって発見されて以来五〇〇年近くたってさえ、日本はいまだに「極東」の島国なのであり、私たちもいまなおそのような位置づけを怪しまずにいる。
 しかし、私たちは同時に、アメリカを自分たちの東にある国として感じながら暮らしているのではないか。アメリカを、ユーラシア大陸の西岸が果てた先、大西洋を隔てたさらに西の国とはだれも思うまい。逆にヨーロッパを思うときでさえ、私たちはそこをアメリカのさらに東と感じる。たとえばコソヴォやチェチェンの場所を思い浮かべてみよう。私たちにとっては、まさにそこが「極東」――東向きの想像力の涯てではないか。つまり、私たちは「極東」という言葉で示される位置づけに慣れすぎて、自らがじつは「西」――しかも「極西 farwest」――にいるのだということを忘れている。

(以下続く)