苦悩をよりよく担うために               岸本葉子

がん患者となって、三年が経つ。
「出会いは通常、別れと対にして語られるけれど、がんの場合は、それはなかなか難しい。いつになれば、別れたといえるのか、果たして別れが来るのかどうか」
前作『がんから始まる』の序に、そう書いた。
再発のもっとも起こりやすい期間を過ぎ、完治のめやすとされる五年間の半ばを越えて、当初のあの、死と対峙するような緊張感は、緩みつつあることを、対談でも述べた。一方で、その頃にはなかった、別のとまどいが生じている。
生活習慣の影響が考えにくい年齢で、がんになったからには、何らかの、なりやすさのようなものが、あるのだろう。この先ずっとリスクを抱え続けていくことに対する、漠然たる不安と、疲労感。同時に、このいまも再発進行のただ中にある患者がいるのに、将来に思いをはせていることの、後ろめたさ。
三年経過ではまだ、サバイバーとはいえないけれど、サバイバーズ・ギルトや人生の再統合という課題が、再発不安と併行して、すでにはじまっているのだろうか。
「五年後のその日が来ても、私の中に宿った何かは、消え去ることはないだろう」「がんと完全に別れることは、ない気がする」
『がんから始まる』の終わり近くに書いた文章は、まさしくいまの思いを表している。

心のケアの重要性については、対談で語ってきた。
いまいちど私の立場を、あきらかにしておきたい。
私はたまたま患者として発言しているが、心のケアは、患者を精神的に慰撫するものだから重要、とするのではない。その目的のためだけに、人的その他の資源の投入を求めるのは、なかなか理解を得られないだろう。
サイコオンコロジーの取り組みが、患者、家族の心に対してのみならず、治療、検査、予防行動、さらには医療従事者のクオリティ・オブ・ライフを通して医療サービスの質、量にまで関係し得ることは、対談で示されたとおりである。
ヒューマニズムの観点のみで、とらえられがちだが、私としては、そうした医療全体、社会全体への波及効果にも、着眼したい。非採算部門とされる、心のケアであるけれど、視野を広くとった医療経済、医療施策の見地からも、評価されることを望んでいる。

 心のケアについては、次のような疑問もあるだろう。
 病であれば苦悩をともなうのは必然である、その苦悩まで、人によって取り除かれねばならぬほど、患者とは弱く、庇護されるべき者なのか、と。
 私もはじめは、そう思った。患者になってしばらくは、システムによるサポートを頑なに拒んでいたのも、その迷いがあったからだ。
 対談を終えたいまは、次のように答える。心のケアの目的は、患者から苦悩を遠ざける、除去する、苦悩しなくてすむようにすることではない、と。
 逆にそれを期待するなら、制度をいくら拡充したところで、かなえられることはないだろう。患者でなくとも命の有限を知る者であるかぎり、死に向かって生きる者であるかぎり、苦悩のなくなることはない。
動物には、苦痛はあるが、苦悩はないといわれる。苦悩は、人間を人間たらしめるものだ。そうした人間像を、思想家フランクルは、ホモ・パティエンスと呼んだ。ホモ・サピエンス、知性ある生き物としての人間像から、いま一歩実存の深みに降りて、苦悩する生き物としての人間、と。そこに立つことが、苦悩を意味で満たすという、人間らしい営みの出発点だ。
ただ、がん告知、治療の後遺症、再発進行その他の衝撃により、苦悩を担うという自我の機能が、一時的に損なわれることがある。その状態を、的確に判断してはたらきかけ、本来の自我の機能の快復を促す。苦悩をじゅうぶんに苦悩し得るための、健康的な自我を取り戻す。
ペイシェントからホモ・パティエンスへ。心のケア、サポートの役割はそこにあると、考えている。

岸本葉子