その一 前世を思う
とても寝付きが悪いので、寝床には必ず本を持ち込む。特に新刊である必要はなく、脳を刺激しない、おだやかな本、淡々とした本、どうでもいい本、安心できる本、などが理想である。
今そこらへんに積み重なっているのは『歴史民俗学10 雑学の冒険』(批評社)、『見世物稼業──安田里美一代記』(新宿書房)、前田寿安『官能劇画大全5・愛奴』(ソフトマジック)、『元禄期軽口本集』(岩波文庫)、『河鍋暁斎・暁翠』(展覧会図録)、ジョン・ハワード『十八世紀ヨーロッパ監獄事情』(岩波文庫)、『日本永代蔵』(角川文庫)。そして横山源之助『下層社会探訪集』(現代教養文庫)。漫画家らしく広く浅はかな読書傾向であろう。
私は近代のいわゆるスラムレポートが好きで、なかでも読み物としても面白い横山源之助『下層社会探訪集』は、愛読書である。なぜスラムレポートが好きで、しかも寝る前に読む本として偏愛しているかというと、「懐かしい」からである。そこに描かれた古い日本の風俗が懐かしいのではない。私は高度経済成長期に団地で育った世代だから、もともと古いものは知らない。むしろ、現在では粋な江戸情緒を感じさせる食べ物として名を聞く深川飯などが、明治時代には下層社会に流行したもので、尋常な人には堪えがたいとまで書かれているのに驚く。つまり近代とは、近いようで実は遠い世界である。
ではなにが「懐かしい」のかというと、屋根の傾いた長屋でマッチの箱貼りの内職をする女房や、木賃宿のボロ布団の上で虱をつぶす行商人の話を読んでいると、失われていた記憶が蘇る気がするのだ。すり切れた長屋の畳を染めるオレンジ色の西日や、木賃宿の薄い枕を通して響く、ほかの客の足音。そんなものを「思い出す」のだ。
なぜかはわからない。好きだからか。貧乏でみじめな生活を好きな人はいない。スラムレポートには「貧しいながらも幸せそう」などという偽善はないのだ。
しょうがないので、便宜的にこれは前世の記憶ということにする。
前世というものがあるならば、私はこんな貧民だったに違いない。少し切ないが、前世のことだからもう終わっているので安心だ。この安心が「懐かしい」という余裕を生むらしい。前世では貧しいけれども一生懸命生きてきたんだ、現世の私もがんばろう……という、やや前向きな気持ちになるのもうれしいところである。
前世占いというものがあるそうだ。テレビで北野武が、前世占いで必ず信長だか秀吉だかと言われると言っていた。芸のない占い師だと思う。
本当に前世があるとして(いや別になくてもいいのだが)、私がそういう占いをしてもらっても「あなたの前世は四谷鮫ヶ橋の長屋のおかみさんでした」なんて言ってくれないんだろうな。
あるいは「あなたの前世の前世の前世の前世はジャワ原人で、特定の妻と二人の子どもがいましたが、蛇に咬まれて死にました」とか。これくらい芸のある前世占いなら面白いし、もしかしたら人類学に貢献するかもしれない。
さすがに「あなたは木賃宿の南京虫で、人間に嫌われてました」という前世は嫌だ。だが仏教の輪廻なら、それもありうる。前世は虫だった、来世では私は貝になりたい……いや、来世を自分で選ぶことはできないのだろうが。まあいいか、南京虫でも。人間より楽だろうし。
私の「懐かしい思い出」は、たぶんどこかで(もちろん私の脳の中だ。私がレプリカントでなければ)合成されたものなのだろう。
最初の記憶が産湯のたらいだと書いたのは三島由紀夫だったか。それに対して生まれたての赤ん坊が、たらいと認識できるはずがないと理屈で反論した人もいた。いいじゃないか、三島由紀夫なんだから。それくらいの「記憶」がなければ小説なんか書けないだろう。「記憶」も芸のうちだ。
さて産湯のたらいより、もっと古い前世の思い出に少し感傷的になりながら、私は眠りにつくのである。しかし目が覚めた時、そこが木賃宿だったらどうしよう。この私は木賃宿で眠るだれかの夢だとしたら。
百年後の世界の変な女(私)を夢に見た、そのだれかは三島由紀夫どころか、コードウェイナー・スミス(アメリカのSF作家。死後、高名な政治学者であったことがわかった。「人類補完機構」が出てくるので、最近は勘違いしたエヴァンゲリオン・ファンに読まれているかもしれない)くらいに変な想像力に恵まれた人だ。だが、それを生かすことなく一生を木賃宿で送ったに違いない。
近代では人々がなにかに目覚めたということになっているが、スラムレポートを見るかぎり、そこに住む人たちは自らの境遇を宿命のように諦めている。そんな人たちを踏み石にして、一等国へと邁進したのが近代という時代だろう。「懐かしい」けれど、私はあそこへ帰りたくない。
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