はじめに/女子供文化は「差別」と「戦争」を許さない
■メインにしてカウンターだがサブではない「女子供文化」
現在の私は、「女子供向けの作品」、すなわち、「どうせ、女子供を相手にしてるんだろ?」といった言い回しで見下されることの多い作品の美点を論評する機会が多い。
そのため、
「お好きな作品をモチーフに、サブカルチャー論を書いてください」
そんな依頼をされることがしばしばある。
「わかりました、締め切りと分量は?」といった話をしながら、実は内心では、(サブ、っていうのとはちょっと違うんだけどなあ……)と考えていることがままある。
自身が好ましく思い、だからこそ論じたいと思うジャンルを称するものとして、一番近い語句を挙げるならば、「サブカルチャー」というよりも、「大衆娯楽」ということになると思う。
では、「大衆娯楽」とはなんぞや、と考えた場合、思い浮かぶのが、近所の古本屋で購入した「池波正太郎読本」の中にあった、こんなやりとりである。
長部日出雄「そのころ社会派の友達を、クレールの『巴里祭』に誘ったら、見終わったあとでかれ、『ああ、時間を損したなあ』って。」
池波正太郎「見ているあいだはその人、案外面白かったのかも知れない。」
長部「それで後ろめたい、罪深い感じになったのかも知れませんね。こんなに面白くていいのかな(笑)なんておもったりして……。」
池波「そういう感じは、いまの批評家にもあるんじゃないかしら。」
長部「あるかもしれませんね。」
池波「これを褒めたら、沽券にかかわると……。」
長部「あるいは、これを褒めなかったら沽券にかかわると。(中略)
だけど、昔のプログラム・ピクチュアは、凡作でもどうしてあんなに面白かったんだろうね。寿司屋の娘がいて、それに惚れてる職人がいて、話は毎度おんなじなのに……。」
井上ひさし「ぼくが好きだったのは、結局そういう映画だったんですよ。もういちど『とんかつ大将』を見られるんだったら、一万円出してもいい(笑)。」
(「昔も今も映画ばかり」/『オール読物』昭和五〇年一〇月号)
テレビで『とんかつ大将』(昭和二七年/松竹 脚本・演出川島雄三 出演佐野周二、津島惠子、角梨枝子)を見た日の夕方、この本を購入したところ、中にこの一文があったため仰天したわけだが、ともあれ、ここでキーワードとなっているのは、「こんなに面白くていいのかな」「これを褒めたら、沽券にかかわる」といった言葉である。こういったことを考えてしまう類の人間とは、すなわち、社会派だの批評家だのと呼ばれる、いわゆる「教養のある人達」のことである。いや、たとえ映画批評を生業にしていなくとも、「映画批評家並みに教養のある人間だと思われたい」、そんな風に感じている類の人達は、全て含まれると言ってよい。
では、なぜその種の人達は、「話は毎度おんなじの、いわゆるプログラム・ピクチュア」の類を毛嫌いするのだろうか。
なぜならば、この種の作品は、いわゆる「教養のない人間」であっても、人間でありさえすれば理解出来る、「低級な(と、彼らが信じている)感情」に基づいてお話が展開していくからである。
そんな類の作品に対して、「面白い」などといった感情を抱いてしまっては、自分という人間の値打ちが下がる。
要は、「映画批評家並みに教養のある人間だと思われたい」人達が、そういった気分を抱く作品、それがすなわち、「大衆娯楽」なわけである。
その意味では、サブカルチャーの世界もまた、「沽券に関わるか否か」という基準を軸に動いている面がある。サブカルチャーの作り手の間にも受け手の間にも、「世の中を斜に構えて見ているやつが偉い」、といった空気が流れていると言えるからである。それゆえ私は、自身が好ましく思い、だからこそ論じたいと思うジャンルのことを「サブカルチャー」呼ばわりされると、ちょっと抵抗を覚えてしまうのである。
が、では「大衆娯楽」でいいじゃあないか、と言われると、それもまた「違う」と感じてしまうのである。なぜなら、少なからぬ「大衆娯楽」が、家父長制だの男尊女卑だの長幼の序だのといった、「保守的で旧態依然な価値観を是とする」世界の中で展開されていくのと異なり、自身が好ましく思い、だからこそ論じたいと思うジャンルは、たいてい「カウンター」な内容を備えたカルチャーであるからである。
そもそも、今から三〇年以上前の日本において、「女は人間であり、男女は平等である、ゆえに男尊女卑・女性蔑視は断固否定すべし」、などと主張するということは、十分にカウンターな出来事だったわけである。なればこそ、宝塚歌劇や少女漫画は、まさに「カウンター・カルチャー」と呼ぶにふさわしい内容のものだったわけである。
しかも、自身が好ましく思い、だからこそ論じたいと思うジャンルの作品の根底にある価値観とは、「差別は許せない」「戦争はイヤだ」「ナショナリズムなんか大嫌い」というものである。すなわち、人間としてきわめて「真っ当な価値観」に則って展開していく、という意味で、まさにそれらは、「メイン・カルチャー」と呼ばれるべき作品だったわけである。
それゆえ私は、「女子供文化」=「メインでカウンターだがサブではない」と主張するのであり、そんな女子供文化を支援してやまないのである。
■女子供文化は「差別」を許さない
大塚英志や斎藤貴男の著作を、私が好んで読む理由の一つに、彼等の文章からは、「この世の中に弱者が存在することに対して、生理的な嫌悪を抱いている」という、男性作家としては稀有な空気が感じられるからである。
しかもその空気は、「自分が差別されることが(あるいは、かつて差別されたことが)イヤだから」、という思いにのみ基づいて発せられている、というわけではない。
おそらく彼らは、自分のこととしてであれ、他者のこととしてであれ、この世の中に「弱者」というか、「被差別者」というか、要は、「損をする人」「バカを見る人」が存在するということ自体が、(理屈に則ってではなく)生理的にイヤなんだろうなあ、と思えるのだ。
が、現在の日本で、アカデミックな世界や堅苦しい活字の世界から、「新作」として発表されるものの中では、こういった価値観をストレートに表明したものは非常に少ない、というのが現状である。
が、女子供文化は違う。
たとえば、『少年サンデー』に連載されていた『かってに改蔵』(久米田康治)というギャグ漫画の中に、次のような台詞があった。
「天は人の上に人を作らず(と言ってる本人が、なんとなく上からものを言ってる)」
(久米田康治「今日はオレのおごりな!」/『かってに改蔵』二三巻/小学館)
まったく、その通りだと思う。こういった、少なからぬ人達が密かに思っているものの、なかなか口に出す機会がない「本音」を、さらっと表現してくれており、なおかつ、読みやすくて面白い、これこそ、コンビニでも気軽に立ち読み出来る、週刊少年漫画誌の魅力なのだと思う。
そして更に言えば、こういった「健全さ」こそ、女子供文化の魅力なのである。
■女子供文化は「戦争」を否定する
菊田一夫 男というものはね、日本だけでなく民主主義国家の連中でも……日本は憲法以外は民主主義国家じゃないからね……みなどこかに好戦的なものを持っているが、女はどこの国の女でもおしなべて平和を願っていると思うのです。(中略)反戦主義とか軍国主義とかそんな堅苦しいことでなく、とにかく平和であって欲しいという人間共通の願い、ちょっと大きいかな、言うことが……(笑)。(中略)ところがね、書いているうちに、ともすればそういう勇ましいところに、つい力がはいって、張り切って勇ましく書きたくなる……男はいかんね(笑)。
(「ひめゆりの塔」座談会/『歌劇』昭和二八年七月号)
『君の名は』の作者で知られる菊田一夫のこの発言は、実にもっともな内容である。
が、こういった男の「困った本質」について、当の男がこんな風に「率直に」語る機会は滅多にない。
つまり、この発言であっても、読者の全てが宝塚歌劇のファンに限られており、そのほとんどが女性であるという、きわめて特殊な状況があったればこそ、菊田もまた、素直な本音を口に出し、編集側もそれをそのまま活字にすることが出来たのかもしれないのである。
これは、言い換えれば、その読者が宝塚歌劇のファンに限られているわけではなく、そのほとんどが女性であるというわけでもない、一般のマスなメディアにおいては、こういった「ミもフタもない」が、「本質をついた発言」には、滅多にお目にかかることが出来ないのでは、ということでもある。
なればこそ私は、女子供文化およびその周辺のメディアに注目するのである。
そこでこの本では、まずは第一部を「『女子供文化』の衰退が日本を『戦争』へと駆り立てる」として、昨今の日本の状況についてを論じていくことにし、続く第二部では、「私が愛した『女子供文化』」と題し、漫画や宝塚歌劇や映画の美点についてを述べていくことにしたいと思う。
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