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家を探す
重いドアをぐいと押して中に入ると、むっとした湿気とカビの匂いが鼻をついた。ガラス越しに緑が見える。これはいいかもしれない。胸がたかなるのが自分でもわかった。地下に下りていく。湿気とカビ臭さはさらに強烈となった。大きなガラス窓の外に鬱蒼とした雑木林がある。やった。
2階はリビングだった。ここにも前面に大きなガラス窓が広がっている。8月下旬のことだったから、午前中とはいっても気温は上昇し、室温は高い。去年の夏の台風で雨漏りがしましてねえ、所有者のTさんが言った。それにはほとんど怯まない。家は雨漏りするものだという先入観がぼくにはすでに備わっている。
屋上に上がった。国立の街が一望できる。多摩の山々が遠くに見え、空が澄んだ日には富士山すらも見えるという。繁茂した蔓が木々の上にまでからみつき、かすかな風で揺れている。決めた、ぼくは胸の中でつぶやいた。もちろん、この家を買うことを、である。
週末は不動産屋めぐり
ことの発端はこうだった。その2週間ほど前、朝起きると、つれあいが息せききって話し始めた。ねえねえ、伸ちゃん、わたし朝早くあの家を見に行ってきたの。ずいぶん前に不動産屋から送られてきたあのチラシ、見たでしょ。林雅子さん設計のあれよ。伸ちゃんは、ほっちゃっていたけど、どうも気になるから行ってみたのよ。あれこの前見た素敵な家だったの。こんな家に住めたらいいなって、二人で話したでしょ。
つれあいは、やや自慢げに、そして、興奮していった。ここ1年ほど家探しが続いていた。週末のほとんどが、物件探しを依頼してあった何軒かの不動産屋に連れられて、土地や中古住宅の見学をすることに費やされていた。
つれあいの勤務先が国立市にあることからぼくは4年ほど前、一橋大学や桐朋学園など文教施設の多いこの小さな街に引っ越してきた。そう新宿からならJR中央線で吉祥寺を越え、国分寺も通過し、40分もかかってやっと到着する。最初に国立を訪れた時、とても辺鄙なところだとちょっとめいってしまったものだ。
でも、緑はふんだんにある。関東大震災後、一橋大学が移ってきたことから形成された、当時としては日本で珍しい計画都市である。当時建てられたネオロマネスクJR国立駅は改装され、まだ現役で使われている。
そこから南へと大学通りが広く、まっすぐに延びる。片側2車線、自転車道、緑地帯、歩道が並び、3月末には緑地帯に植えられた桜が一斉に咲き乱れる。それはそれは見事な光景だ。都市計画は西武鉄道がおこなった。今でこそせせこましく分割されてはいるものの、当初は広くゆったりと区画された敷地が並んでいた。
一橋大学のキャンパスも木々に満ちている。散歩をするのにはもってこいだ。ここの図書館の蔵書も充実している。勤務先の研究所の図書室より建築史の研究にはずっと役に立つ。本郷の総合図書館に行くよりも断然近いから、ぼくはちょくちょく愛用している。
駅の南口から歩いて5分の場所に、2階建て木造家屋を借りたのは、そんな環境が気に入ったからだった。そこに住み着いて、3年が過ぎようとしていた。昭和30年代に建てられたその家も、ずいぶんとぼくたちは気に入っていた。隙間風はひどいし、冬の寒さや夏の暑さも並み大抵ではなかった。
でも、部屋のひとつひとつがゆったりとしていた。意味不明な縁側や廊下のような空間がいくつもある。押し入れ、納戸もむやみにひろい。大家はこの借家の南側に住んでいた。ぼくたちの借家は元のすまいで、のち広い前庭をつぶして新しく現在の家を建てた。
ここにずっと住めたらいいのにね、と時々話しあったけれど、最長6年で、と不動産屋から釘を刺されていた。売ってくれませんか、と不動産屋を通じて大家に聞いてももらったが、金に不自由していないらしく、脈はとんとないということだった。
部屋の広さに比べたら家賃はずいぶんと安かった。それでも、6年も住めば軽く1000万は越えてしまう。経済に強いつれあいは、そんな状態に我慢ならなかったようだ。時期がさらに刺激を高めた。バブルが弾けて経済は低迷し、ローンの金利も下がりに下がっていた。
大切なのはいつが金利の底なのかを見極めることである。経営学を専攻するつれあいの、同世代の同僚たちがこぞって家を買い始めていた。その仲間意識と専門家のカンに彼女は押された気配がある。それに、ローンを組むとしたら、そのころ40代半ばだったぼくの方はもう最後の時期に近づいている。この点でもつれあいは焦っていた。
ぼくの方は、でも呑気だった。故あって出てしまったけれど、一度家を建てた経験がある。家を建てることの大変さと空しさを知っている。そのうえ、経済にはとんと関心がない。その日暮らしができればいいや、金はどこかから降ってくる。
そんな気質だったから、家賃の総額がいくらになろうと気にはならない。むしろ、建物をたくさん見るのが商売だから、ちょっとやそっとのものには住みたくない、と変な職業意識にとりつかれていた。
他人の家を批評する前に
そんな頑迷な職業意識がぽんと弾けたのは、広島に行った時だった。日本建築学会発行の『建築雑誌』の取材で広島県の建築家にインタビューに出かけた際のことだ。取材の最後の日、若い建築家に連れられて瀬戸内海の見える住宅を見学しに行った。流行のネオ・モダニズム風のその住宅は、斜面に建っていた。大きな窓からは瀬戸内海が一望できる。
その時、ぼくは建築史家、いや建築評論のばかばかしさを突然肌に感じた。ぼく自身そんな大それた建築評論などできはしない。けれど、他人が設計し、また別の他人が使う建物などを評価したり、誉めたりし、貶したりして、何の得があるんだろうか、と。
そんなくだくだしいことで時間や体力を浪費するより、瀬戸内海の見えるこの家に住みたい。ほんとうにぼくはその時、鳥肌が立つような切実さでそう思った。
東京に帰って本気で家を探し始めた。広く、見晴らしのいいあの瀬戸内の家に負けないような家にぜひとも住みたい。でも、さすがにこれは東京では虫が良すぎた。よほどの悪徳家か、資産家だったらいざしらず、国家公務員の大学助手程度の給料などたかが知れている。
バブル崩壊の余波
じゃあ、どうしようか。そうだ、中古物件を探そう。名案というより、それはぼくたちがとりうる唯一の手段であった。広い土地に住みたいならば、土地を買っただけでもう終わり。上物を建てるだけの金銭的余裕は生まれない。あっちもこっちもというわけにはいきはしない。
それからほぼ2年間、ぼくたちの家探しが続いた。国立の周りには、さがせばいい中古物件がずいぶんとあった。これもバブルの後遺症か、豪邸に住んでいたひとが不如意となって、家を手放さざるを得ないケースが多い。事実、のちにぼくたちが購入した中古住宅も、そのバブル経済崩壊の余波によって売りに出されたものだった。
いまでも心残りの家々がある。立川の米軍基地のアメリカ人用に普請道楽の地主が作ったいくつかの和風住宅は、木造のしっとりとした風合いがあり、さらにアメリカ人のライフスタイルに適合した快適な使い勝手や広さを持っていた。ここも貸すだけで売ってはくれない、そう言われて涙を飲んだ。
桜の木の家も心に強く刻まれている。住宅自体それほど印象的ではなかったが、入り口付近に立つ桜の巨木に思わず見とれてしまった。やや高額だったことで決断を逡巡していたら、住宅業者がさっと買い取ってしまった。数ヶ月ほどして偶然近くを通りかかると、桜の巨木はない。土地は三分割され、住宅は取り壊されていた。
悲惨だったのは、夜逃げの住宅を案内された時だった。村松さん、これはまだ出回ってないからぜひ今すぐ見に行きましょう、と不動産屋に急き立てられて行った。寝室には女性の服が散乱し、子供部屋にはランドセルや教科書がほうり出されていた。どういう事情があったのかわからない。けれど、これは心に悪い。住宅もなんとなく風水がよくなかった。もっとも、ぼくたちのすぐ後の見学のひとたちがそれを買ったそうだったが。
徳島県の旧県人寮が競売に出ると聞きつけ、それに参加しようとも試みた。国立市や国分寺市には、いくつかの河岸段丘が走っている。ハケと呼ばれるこの斜面は、まさにぼくが理想とする瀬戸内の住宅と同じ地形にある。
こんな土地だれも買いませんから大丈夫ですよ。ぼくたちの不動産屋は自信ありげに胸を叩いたが、あっさり別の業者が買い落とし、細分化して分譲住宅にしてしまった。街を見下ろす見晴らしこそ、その土地のもつ特色だったが、それはすべて無視されて、いまでは小さな窓がついた小さな小さな家で埋まってしまっている。
もうやめようかと思っていた矢先、理想の中古物件が飛び込んできた。チラシには、「有名建築家林雅子氏設計、ギャラリーをもつ家」、と記されていた。
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