|
ピルゼン
父は、浪人をしている。
昭和ひとけたの働かざるもの食うべからず派で、せっかく定年退職となったのに、悠々の境地からは遠く、なにやら資格をとるべくもう何年も勉強している。
ちいさな港町のおやじさんが、その資格を持つと、はたしてどういう利があるのか、家族はさっぱりわからない。本人はきまじめに机に向かうが、頭が固くなって来るから、なかなか試験に受からない。趣味の受験、年中行事とからかわれ、それでも、毎年試験を受けに東京に来る。
長く東京で働いたから、着けば嬉々として地下鉄に乗り込み、まっすぐ日本橋に向かう。はじめに丸善で重たい本を買う。それから三越で最新のゴルフクラブを振っては買わずに、シャツやネクタイ、帽子を選び、地下で土産のせんべいを買う。奮発してコートや靴を新調しても、いつも同じ色かたちなのは、ひとの勧めを聞かぬたちだから、しかたない。
行きつけをまわって、安心すると、ごちそうしてやる、と電話をかけてくる。
いつもは、東京にいたころ足しげく通った店に行きたがるのに、あるときばかりはどこでもいいと言ったから、銀座交恂社ビルのピルゼンに連れて行った。
重い扉を開ければ、にぎやかな声が広がる。特等席の窓際もいっぱいで、大きなビール樽がならんでいるそばに座った。樽をかこんで、年配の紳士淑女が力づよくビールジョッキを握りしめている。
父は、ずいぶんにぎやかだなと驚いている。そのぐらいでちょうどいいからつれて来た。これといって話題もなく、話せばなぜだかけんか腰になる親子だから、まわりの声に憎まれ口がとばされるくらいのほうが助かるのだった。
話すことがないと、どんどん食べる。ピクルス、にしんの酢漬け、ソーセージ、酢キャベツ、豚の塩漬け、ベーコンとじゃがいも炒め、コールドタン、チリピラフ、エビフライ、ボルシチ。
はじめは年寄りぶって、こんなに食べては体に毒だと言ったのに、ひと口うまいと気付けば、腹が減っては戦はできぬ、と、どんどん平らげる。
だんだんと、ほろ酔いの軌道に乗ると、面白そうにあたりを見まわし、急ぎ足でビールを配りまくっている初老のウェイターを呼び止めては、ビールのおかわりをくりかえす。
ウェイターも、若いウェイトレスも、すべての注文を聞きもらさないことが、父を驚かせ、喜ばせ、満足させた。
親子で向かいあえば、ビールジョッキを持ったときの手首の骨すじ、赤くなった頬骨のかたちがまったく同じかたちだから、そのうち、こういう顔のばあさんになるのだとわかった。
帳場には優雅なマダムがいた。
ふくれ腹で会計に立つと、ちいさな張り紙を見る。閉店御礼。たてかえで閉店し、新しいビルには入らない。大きなビール樽、黒い窓飾り、白木の長いす、使い込まれた机。年配のお客が多いのには、わけがあった。
ピルゼンに行ったのは、その晩が最後となったが、父の浪人ぐらしは続いている。先ごろ模擬試験を受けたら、合格率七十パーセントだった、といばっている。
秋には七十となるから、いよいよ景気づいて、合格してもいいころとなった。
|