訳者あとがき

 ジョン・マンの『人類最高の発明アルファベット』(Alpha Beta: How Our Alphabet Shaped the Western World)を読んだとき、未知の世界を次々にのぞいていくようなおもしろさに思わず我を忘れてしまった。これほど驚きと発見に満ちた本は、そうないと思う。まるで怪物のような本である。しかし考えてみれば、「アルファベット」そのものが怪物のようなものなのかもしれない。
 前書きを読んで、まず、なるほどと納得してしまった。アルファベットは完璧でないところがいい、というのだ。シンプルでいいかげんだからこそ、あらゆる言語に対応できるのだ、と。さらにその強靱な意志。「人類のあらゆる話し言葉を二〇から三〇の意味を持たない記号で表そうという、アルファベットの理念は不変なのだ」
 こうしてアルファベットはアフリカ、中近東、ヨーロッパ、そして世界中に広がり、日本にもローマ字という表記方法がもたらされ、文字を持たない人々の言葉まで書き留められるようになった。いま、新たな言語がみつかったら、たぶん多くの人々はアルファベットで書き写すはずだ。これを漢字で表記しようとする人はまずいないと思う。
 これはわれわれがアルファベットに慣れ親しんだせいなのか、それともその便利さのせいなのかは、わからないが、ともあれこのアルファベット、まるで化け物のような柔軟性と人なつっこさを持っていることは間違いない。
 しかしいうまでもなく、世界中で使われているアルファベットもその起源や変遷についてはまだまだわからないことが多い。
 さて、この本はそのアルファベットについて、その発想と伝播に焦点を絞って、そのたどった道を追っていく。まず四000年前のエジプトから、ローマ、現代へ。というわけで、まずはアルファベット以前の三つの文字体系から。もちろん絵文字である。しかし文字とはいったい何か、絵と文字とはどう違うのか……というふうなところからゆっくり幕が上がり、やがてギリシア・アルファベットの原型になっているフェニキア・アルファベットが登場し、やがて舞台はシナイ半島、シリアへと移っていく。
 こんなふうにまとめると、無味乾燥な学術書のように思われるかもしれないが、それはとんでもない誤解で、これほど楽しく面白く、また発見に満ちた本も少ないだろう。作者は歴史家であると同時に旅行作家でもあり、ゴビ砂漠からエクアドルまで世界各地を見て回りそれを本にまとめてきた人だけあって、その土地、気候、食べ物、人、そして文化を見る目は鋭い。そういった目が、アルファベットが形作られ、また発展していった歴史を追っていく。これほど知的好奇心をそそってくれる読み物も珍しい。
 そして作者は、茶目っ気たっぷりに、寄り道の楽しさも教えてくれる。たとえば第四章「完璧なアルファベットを探して」。ここでは一見、単純明快にみえるアルファベットの信じられないほどの可能性から話が始まる。「アルファベットが単純だというのは、マンハッタンの街路地図が単純だというのと同じだ。実際それだけをみても、言語の実体も町の本質もわからない」と前置きして、アルファベットの表す複雑な音、それに輪をかけて複雑な言語へと進み、そのうち「言語の完璧な表記方法」などありうるのかという問題に移っていく。そして最後に、「西洋アルファベット以上の働きをするアルファベットも存在する。完璧を求めて、可能なかぎり進歩していったアルファベット」として、十五世紀半ばに朝鮮で生まれた、「人類の成し遂げた知的偉業のひとつ」を紹介する。イギリスの言語学者ジェフリー・サンプソンをして「その単純性と効率性、精密さと簡潔さはまさにアルファベットの典型」であるといわしめた、その表記方法とは……
 言語、文字、文化に興味のある人にとって、文句なく面白い本であることは間違いない。

金原瑞人