あとがき


 ひとは、目に見えているものを真実として生きがちだけれど、こころの思いや今日の天気、場の空気、ご縁と呼ばれるめぐり合わせの妙など、実は目に見えないちからにずいぶん左右されて暮らしている。
 可視と不可視の現実のあわい。そこに在るよりほかない人間を、最も遠くて最も近い「自分」というサンプルを通して眺めてみたいと思った。
 さいわいにも、表現の仕事をしている。説明のつかないものとの付き合いは深いのである。
 連載ははじめての経験だったが、気軽に書けて楽しかった。
 第一章のような物語調でおしまいまで進行させるつもりが、回を重ねるうちにいつのまにか分析や考察が入り乱れ、小理屈をこねていたりする。
 そういう意味で連載というのは生ものだと知った。何がどう育つか見当がつかないというライブ感にはそそられるが、あいにくこのライブは活字として残る。
 責任の取れることを書いたかどうか。
 何しろ目に見えないこと相手なもので。

 それにしても、編集作業をしていて驚いた。
 通読したら谷川俊太郎さんの話題が引きも切らない。気ままが高じている。
 確かに折りにふれて書いたという意識はあったけれど、我ながら思いもよらない頻度である。
 谷川さんご本人は時々このエッセイを読んでくださっていたようで、大胆なことを書くわりに会えば卑屈にしている私に、僕は怒りませんよ、何でも自由にのびのび書きなさい、とやさしい言葉をかけてくださって、私の慕情はますますてっぺん知らずである。

 写真家の首藤幹夫さんは長い友人である。学芸大学の駅前にある「チェロキー」というオーガニックな居酒屋で十年前に知り合った。
 首藤さんの写真を見ていると泣きたくなる。彼の中の少年は、いつもかなしくてやさしい。世の中がどんなにめちゃくちゃでも、こんな写真を撮る人がいるという、そのことだけで、この世はいとおしむ価値があると思わせてくれる。
 首藤さんとのコラボレーションは、彼作のスライド映画『光素』に続き二度目だが、まかせておけば必ず素敵なことになるという安心がある。全部がカラーでないのが残念なので、いつか写真展と朗読会を抱き合わせていたしましょう。
 装幀のオーノさんはお若いのに見上げた苦労人で、『薬罐』に続くお付き合いだ。

 単行本化に際しては、連載にない恐山探訪記とメキシコはマヤ遺跡の印象を二回分として加筆している。
 目に見えないものをめぐるあれこれとのつきあいは、これからも私の行く末に七色の光と影を落とし続けていくはずである。振り返ったときなつかしくも鮮やかな、初エッセイ集であったらいいと思っている。
 編集を担当して頂いた安藤聡さんに心から感謝をこめて。

覚 和歌子