はじめに



 日本の椅子は疲れる。
 学校、職場、飲食店、車や飛行機、長距離列車の座席にしても、長時間ストレスなく坐っていられた試しがない。こういう不満をもらす人はわたし以外にも大勢いるのではないか。
 理由は色々と言われている。
 日本は椅子の歴史が浅い。体型が一人一人ちがう。クッションは硬いのがいい。フカフカで柔らかいのはダメだ。座面が高いから足を切れ。などと専門家たちが色々なことを言ってはいるが、〈理論の通りに現実は運ばない〉というのはどうやら世の常であるらしい。

 かつて筆者が学生だった頃、運転免許をとったことに調子づいて車で旅に出ようと思い立ったことがある。まだ血気盛んな年頃で、身体もいたって元気だったが、二時間も乗っていると腰が痛くなってしまう。東京から名古屋、大阪へと遠出をする内に、もはや歩けないほどに腰が立たなくなってしまい、泣く泣く旅を断念したこともあった。車種は某国産車であった。
 ところがある時、ヨーロッパに行く機会があり、レンタカーでフランスの大衆車を借りて、見知らぬ土地を一週間も旅して回ったときのこと。毎日数百キロも車を走らせ、旅費を節約するために車に寝泊りするようなこともあったが、腰痛などはその気配すらも起きなかったことに驚きと感動を覚えた。この経験がきっかけとなって、今も十年落ちのポンコツ「シトロエン」を足がわりに使っているが、関西、九州へと過酷なドライブを横行しても、腰痛を起こしたことなどは一度もない。

 「いったいこの違いは何なのか!」

 もしこの問題を「文化と歴史の差である」と言って片付けてしまう学者がいるとしたら、これは専門家の怠慢以外の何ものでもない。
 「人間工学と整形医学に基づいてつくられた」と謳われている椅子に坐っていて、〈椎間板ヘルニアになってしまった〉という人を今までにも何人となく診たことがある。その一方で欧州車に乗り換えて〈腰痛が治ってしまった〉という人も数多く知っている。わたしたち生活者は、いったい何を信じて椅子を選んだらいいのだろう。
 ここ数年来、椅子を中心にヨーロッパの家具を研究してきたが、海外で調査や資料収集などをしていてまず気づいたことというのは、ヨーロッパの人々の生活を支えている「心地よい椅子」の多くは、ほとんど日本に紹介されてはいないということだった。
 パリやミラノ、北欧などのサロン(家具見本市)でも、日本のインテリア誌の注目の的は、花形デザイナーの新作や、新素材、新機能といった、莫大な経済効果を生み出しそうな技術にばかり向いていて、〈身体に訴えかけてくる心地よさ〉の方面には、ほとんど目が向けられていないように思う。その一方で、筆者の宿泊した安ホテルや、現地の知人友人宅のなかに、おどろくほど「心地よい椅子」の多かったことが率直な印象として残っている。
 日本人の場合、椅子が気に入らなければ畳に寝ころべば事は済むが、厳しい冬を家の中で過ごすヨーロッパの人々にとって、椅子の良し悪しは死活問題である。新素材や新技術を生み出そうとしている花形商品の背後には、数十年、数百年来、ヨーロッパの人々の暮らしを支えてきた椅子が厳然として存在していて、それらは文字通り"meuble"(動く財産)としての風格が刻み込まれているように感じられた。
 人間の感覚がとらえる繊細なデザイン領域は、それを簡単に言葉に移すことは許されないけれども、実際に道具を使っている生活者たちは、永年、物とともに生きてゆくなかで、その素材や形が内に秘めている「心地よさの論理」を肌で感じて知っているようだ。

 日本の消費の動向を見てみると、医者から押された太鼓判を簡単に信じてしまうような傾向が、ある時期までは続いていたが、しかし現在にいたっては、医療に対する不信がいよいよ高まっているように、インテリアの世界でも、多くの専門家たちは人間工学や整形医学に対する不信感を募らせているようなところがある。
 どういうことかと言うと、現在、日本には腰痛・肩こりの症状を持つ人が人口の八割を超えていると言われている。にもかかわらず、工学や生理学の専門家のなかには「椅子と姿勢の研究については既にやり尽くされている」などと考えている人々が少なくなく、ここ二十年の間、これといって研究成果も上がらないまま、同じようなことを焼き直して、学習椅子の基準をつくっていたり、商品カタログに箔をつけたり、などということをくり返しているのである。
 このような穿った空気のなかから出てきた単純な姿勢理論を基準として、工業製品が画一化されていたりすると、それぞれの地域や民族によって異なる生活の背景や、伝統的に培われた職人の技術などは、機械的に単純化された理論によって葬り去られてしまうような弊害が生まれてくる。
 例えばある雑誌に「硬いシートが健康にいい」などと書かれると、「椅子は硬いのがいいらしい」という風潮が世の中に流布するようになる。しかし、ノルウェーやスウェーデン、フランス、ベルギー、アイルランドなどの国々に行ってみると、柔らかくても疲れない椅子は無数に存在するし、そうした「柔らかい心地よさ」を愛している人々も数多く生きているのである。筆者のポンコツフランス車もその内のひとつなのだが、哀しいことに、経営不振で他社に買収されて以降は、全車種が日本車とほとんど大差のない普通の座席になってしまった。
 医者と学者とメーカーが結託して、一つの理論で世界を支配しようとすると、経験的な歴史の上に積み重ねられた繊細な技術は、それが「言葉にならない」という理由で時代の波に呑み尽くされてしまいかねない。実際問題としてクリエーションの最高峰の技術というのは、およそ言葉を超えた感覚領域でみな凌ぎを削り合っている。その技術があまりにも繊細であったがために、ある大雑把な合理主義に呑み込まれ、すべてが経済効果へと還元されてしまうような世界の風潮に対して、もはや悲鳴にも近い危機感を察してこの研究をはじめた。
 研究を進めていくうちに、フランスの社会科学を構成する一領域に、「身体の使い方」を中心とした技術文化の研究があることを知った。「身体技法」と言われるこの分野は、一九〇四年にマルセル・モースがはじめて指摘して以来、百年来の伝統がある。人間の姿勢や動作の特徴は、単に個人的なものではなく、社会全体として共通する集合的な性質があり、その習慣的かつ伝統的な流儀にしたがった「身体の使い方」のことをモースは「身体技法」と名づけた。
 この考え方は、「身体と道具」のかかわりをひとつの手掛かりとして、技術文化の研究として発展し、一九四三年にはモースの高弟であるルロワ=グーランによって方法論的な体系が築かれる。彼のもっとも初期の著作である「人間と物質」には、「道具の使用法」を中心とした技術文化の民族学的な体系が描かれており、この成果が基礎となって、以降フランスでは、使い手の立場により近い、人間と技術の基礎研究が急速に発展し、博物学、美術史学、建築・デザイン計画などの分野にも多大な波及効果をもたらした。
 日本で一般に「デザイン史」というと、視覚的な装飾を中心に歴史が組み立てられていることがほとんどで、それらはわれわれ生活者の実感からは遠く隔たったものとなっている。例えばルイ十五世スタイルの家具は「猫足」が特徴的で、十六世になると直線的になり、アールヌーボーでは自然の有機的曲線が家具デザインに入ってくる、などということを言われても、知識としては面白いかも知れないが、「それがわれわれの実生活にどう役立つのか?」ということについては、何ら具体的な解答が得られない。ところがフランス本国に行くと、年表的なモノグラフのデザイン史がある一方で、生活場面に応じた家具の「歴誌」が綿密に構成されていて、つまり食卓や寝室や書斎や学校などで、かつてどのような家具が使われていたのか、という生活者中心のガイドラインが、科学的に構成されていることに驚かされる。
 ここで用いられる科学的な方法というのは、実験装置を用いて数学的なデータを抽出することを意味するのではなく、一定の論理的な視点から事物を眺め、観察し、それぞれの特性に基づいて「物のあり方を整理・分類するための論理」を導き出すことに、大きな価値が置かれている。つまり科学とは文字通り「科目の学」であり、その観察と分類の視点のなかからは、おのずと研究者の「世界観」が描き出されてくるのである。

 人間の身体を機械のように合理化してとらえる考え方を進めると、一般的な理論や基準はつくり易いし、機械で量産化することも容易にできてしまう。しかし、ロボット技術がどんなに進んでも、それが人間そのものにとって変わることがあり得ないように、「機械の論理」から出てきたものは、「生命本来の心地よさ」に対して、いまだに遠く距離があるように思う。両者はそれぞれの欠点を補い合いながら共存することが望ましいのだが、歴史を見る限りでは、近代というのは「機械の論理」に一方的に圧されてきた時代ではなかったか。
 言葉そのものが伝えているように、「道具」とはそもそも「道」を「具」える「物」である。椅子は本来「坐ること」を支える道具であり、靴は「歩くこと」を支える道具である。そうした道具の扱い方を工夫する「気づかい」のなかに、物事の「道理」を伝える大事な役割がある。
 「身体技法」という角度からデザインを眺めてみると、物の素材や形には、人々の生活の様子から、その社会の価値体系までもが克明に刻み込まれていることがわかる。その使い心地を保証するディテールのバランスに「身体感覚のデザイン」という領域が見えてくる。