プロローグ

 目の前の机も、その上のコップも、耳にとどく音楽も、ペンも紙も、すべて誰かがつくったものだ。街路樹のような自然物でさえ、人の仕事の結果としてそこに生えている。
 教育機関卒業後の私たちは、生きている時間の大半をなんらかの形で仕事に費やし、その累積が社会を形成している。私たちは、数え切れない他人の「仕事」に囲まれて日々生きているわけだが、ではそれらの仕事は私たちになにを与え、伝えているのだろう。
 たとえば安売り家具屋の店頭に並ぶ、カラーボックスのような本棚。化粧板の仕上げは側面まで、裏面はベニア貼りの彼らは、「裏は見えないからいいでしょ?」というメッセージを、語るともなく語っている。建売住宅の扉は、開け閉めのたびに薄い音を立てながら、それをつくった人たちの「こんなもんでいいでしょ?」という腹のうちを伝える。
 やたらに広告頁の多い雑誌。一〇分程度の内容を一時間枠に水増ししたテレビ番組、などなど。様々な仕事が「こんなもんでいいでしょ」という、人を軽くあつかったメッセージを体現している。それらは隠しようのないものだし、デザインはそれを隠すために拓かれた技術でもない。
 また一方に、丁寧に時間と心がかけられた仕事がある。素材の旨味を引き出すべく、手間を惜しむことなくつくられる料理。表面的には見えない細部にまで手の入った工芸品。一流のスポーツ選手による素晴らしいプレイに、「こんなもんで」などという力の出し惜しみはない。
 このような仕事に触れる時、私たちは「いい仕事をするなあ」と、嬉しそうな表情をする。なぜ嬉しいのだろう。
 人間は「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを、つねに探し求めている生き物だと思う。そして、それが足りなくなると、どんどん元気がなくなり、時には精神のバランスを崩してしまう。
 「こんなものでいい」と思いながらつくられたものは、それを手にする人の存在を否定する。とくに幼児期に、こうした棘に囲まれて育つことは、人の成長にどんなダメージを与えるだろう。
 大人でも同じだ。人々が自分の仕事をとおして、自分たち自身を傷つけ、目に見えないボディーブローを効かせ合うような悪循環が、長く重ねられている気がしてならない。
 しかし、結果としての仕事に働き方の内実が含まれるのなら、「働き方」が変わることによって、世界が変わる可能性もあるのではないか。
 この世界は一人一人の小さな「仕事」の累積なのだから、世界が変わる方法はどこか余所ではなく、じつは一人一人の手元にある。多くの人が「自分」を疎外して働いた結果、それを手にした人をも疎外する非人間的な社会が出来上がるわけだが、同じ構造で逆の成果を生み出すこともできる。
 問題は、なぜ多くの人がそれをできないのか、ということになるが、まずはいくつかの働き方を訪ねるところからはじめてみたい。
 僕はちょうど三〇歳の時に会社を辞め、自分の仕事を始めると同時に、働き方について調べる仕事をはじめた。
 現在の仕事は、「つくる」「教える」「書く」の三つに大別できる。ウェブサイトのデザイン・プランニングや、博物館や美術館の展示物企画・制作、プロダクト開発などの仕事のかたわら、美術大学などの機関でデザイン関連の教育にたずさわっている。
 「書く」仕事の主なテーマは「働き方」だ。「働き方研究家」という肩書きでいくつもの仕事場を訪ね、「あなたの働き方について聞かせてください」と、答えに窮しかねない話題について根ほり葉ほり聞いてまわった。
 いいモノをつくっている人は、働き方からして違うはずだと考えたのだが、はたしてその通り。彼らのセンスは、彼ら自身の「働き方」を形づくることに、まず投入されていた。
 素晴らしい仕事も作品も、ある意味で、その結果に過ぎないことがよくわかった。また同時に、それぞれの仕事が彼らにとって、他の誰にも肩代わりできない「自分の仕事」であることを知った。
 この本に登場する人物には、デザインやモノづくりに関わっている人が多い。しかし彼らが語ってくれたことは、決して専門分野の特殊な話ではなく、働き方を考え直してみたいすべての人と共有できる普遍性を持っていたと思う。
 この本は働き方をめぐる探索の、小さな報告書です。