「平泳ぎ・北島康介 アテネ五輪への道 平井伯昌」より

 04年8月のアテネ五輪の競泳期待の星・北島康介には、かつて、ひとつの「前置き」が付いている。
 「前半の北島」
 98年の全国高校総体。東京・本郷高1年だった北島は100メートル平泳ぎで、1分3秒00で優勝する。そのときの50メートルの折り返しは29秒29。当時の日本新〈1分1秒76〉のラップタイムを、0秒29上回っていた。
 「前半」といわれるのは、「後半に弱い」の裏返しである。だから、「前半のペースを抑えれば記録も上がる」という指摘は多かった。それを一身で受け、はねのけてきたのがコーチの平井伯昌〈のりまさ〉だ。
 平井は96年から、北島の指導を始めた。アトランタ五輪があったこの年、独自に若手を長期計画で育てる方針を固めた。照準は8年後、アテネ五輪。その若手の1人に、中学2年生の北島がいた。
 当時を知る多くの人々が、平井の北島評を覚えている。
 「やせっぽちだけれど、キックがすごくいい。将来は絶対、オリンピック選手に育てる」
 平井には平井なりの事情もあった。早稲田高校で自由形の短距離選手だった平井は、早大水泳部を経て86年に東京スイミングセンターに就職した。「世界と戦える選手を育てたい」と、生命保険会社の内定をけり、両親から猛反対されての水泳界入りだった。
 それから10年。トップ選手を任されるようになっていたが、思うような成果が出ない。「平井は選手を育てられない」という声が聞こえてくる。
 いまでこそ、笑いながら「崖っぷちに立たされているような気持ちでしたね」と語るが、96年の段階では「北島で失敗はできない」と考えていたのは間違いないだろう。自分への叱咤(しった)でもあるかのように、北島への指示は一貫していた。
 「最初から思い切り飛び出せ。最後は疲れで失速しても、それでいい」

(朝日新聞スポーツ部 堀井正明)