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ファントムのハート──まえがきにかえて
それは横四センチ、縦五センチ、厚みは一センチちょっとの銀ねずみ色の金属の塊です。鈍い光を放つこんもりと盛り上がった表面には、細かい黒い斑点がたくさん見えます。ハート形にくびれた上方に心臓から出ている大血管とも見える灰色の小さな突起がついています。裏返してみると、凸凹した表面から、金属がいったん溶けて固まったものだということがわかります。
一九六八年の初夏。事件は真夜中に起こりました。私は九州大学医学部の六年生でした。医学部から数キロ離れた所にある九州大学箱崎キャンパスに、アメリカ軍のジェット戦闘機ファントムが落ち、工学部に建設中の大型電子計算機センターに激突したというのです。翼の幅は十一メートル、全長十八メートル、総重量は二十六トンもあるファントムです。轟音と燃え上がった炎が、寝静まった街を震わせました。夜で、工事をしている人間は誰も居なかったため、怪我人も死者も出ず、パイロットはパラシュートで脱出して助かりました。ファントムはベトナム戦でアメリカ空軍の戦闘爆撃機として、ミサイル八発を搭載し、破壊力を発揮していました。
その日、午前と午後の授業を放棄して、私たちは板付基地までデモに行き、基地の日本への返還とベトナム戦争を即刻、中止するようにシュプレヒコールを繰り返しました。翌日には、学長を先頭に、全学の教官、学生が六千人のデモを行い、首相とアメリカ代理大使に対して、板付基地の撤去を要望しました。私たちのシュプレヒコールは、強大な力に向かって放たれた細い矢のように、暑い大気の中に消えていきました。
大学評議会は間もなく、ファントムを自主的に引き降ろすことを決定しました。一日も早く大型電子計算機センターを建設することが、最先端の研究で遅れをとらないために必要だったからです。研究の進歩より、ファントムをかたに、アメリカに対して基地の撤去とベトナム戦争の中止を迫ることが大事だと考えた私たち学生は、電算機センターの周りにバリケードを築き、占拠する方針を決めました。
日が暮れて、私たちは半壊した電算機センターのあちこちに分かれて、泊まり込むことになりました。夏の夜というのに、地上には焚火が赤々とたかれていました。不寝番をしているヘルメットをかぶった学生の黒い影が、鉄パイプを握ってバリケードの内側を行き交い、不審な者が近付かないように見張っていました。その赤い炎を電算機センターの上から見下ろしながら、私たちは平らな場所を見つけて、段ボールを敷き、横になる場所を探しました。
うとうととして、肌寒いなあと目をさますと、もう辺りは明るんできていました。右手にひんやりと当たったものがありました。コンクリートの屑の中に埋もれていたハート形に固まったファントムの機体の一部でした。アルミニウムの融点は六百度以上ですから、よほどの高熱で溶けて、再び固まったものに違いありません。形にひかれて、私は塊をそっとジーンズのポケットに入れました。半年間にわたって、ファントムの残骸は電算機センターの二階部分につきささったまま、野ざらしにされていましたが、翌年の正月休みの夜に、突然、前ぶれもなく引き降ろされました。間もなく、私は医学部を卒業しました。
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その一年半後に、私は北九州市小倉区にある、国立小倉病院に就職しました。一人前の医師になるためには、卒業後数年間にわたって大学医局に無給医局員として残り、医学博士号をとるために研究生活をすることが必須の条件でした。大学とは離れたところで、地域医療に尽くしたいと考えた私たちは、北九州市内の各国公立病院に、グループを組んで就職していったのでした。
小児病棟は平屋の建物でした。小児科医局には私を含めて四人の医師がいました。部長と外来医長は中年の男性医師。私と一緒に就職したのは二年上の先輩でした。エネルギッシュな彼女は、白衣から伸びた足指に、赤いペディキュアをしてくるおしゃれな女性でした。医学教科書と小児科学の雑誌を片手に、新米医師の私が診断を誤らないように、適切な治療ができるように、教育係りを務めてくれました。小倉区内の各病院に就職した先輩の小児科医達が、毎週カンファレンスを開いて、私たちの診療をサポートしてくれました。
生後四ヶ月の芳子ちゃんが、一日のうちに何回も、突然、首がカクッと前に垂れるからと受診してきました。それまでは、頚も座り、あやすと笑っていたのですが、笑顔もみられなくなり、ぼんやりして寝たきりになってしまいました。さっそくとった脳波から、これは赤ちゃんに特有のてんかん、ウェスト症候群だという診断がつきました。
ホルモン剤の注射を始めると、発作はぴたりと止まりました。しかし、長く注射を続けるうちに、副作用で感染しやすくなり、肺炎を起こしてしまい、私はその治療にかかりきりになりました。
発作が止まり、健康を回復した芳子ちゃんは、二ヶ月半の入院生活を終えて、退院しました。頚が座ってくる気配もなく、顔に表情が出てこないことが気がかりでした。その後、知恵づきと運動の発達はすすまず、私は、外来で診察する度に、お母さんをどう励まそうかと頭を痛めました。医学が治療できることと、その限界にぶち当たった初めての経験でした。
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二年後、東京に住んでいるつれあいと暮らすことになった時、部長は世田谷区にある国立小児病院に紹介状を書くことを申し出てくれましたが、私は断って、上京しました。他に、あてがあったわけではありません。ハートの形をしたファントムのかけらを、この引っ越しの時にも、荷物の中にしまって持って行きました。
早春の午後、重症心身障害児の収容施設である一二三学園を訪ねました。葱の植わった畑の角を曲がり、梅の花がちらほら咲き出した住宅街の中を歩いて行くと、木造二階建ての茶色の建物が見えました。園長さんはにこやかに迎えてくれ、ちょうどその頃、学園内で流行っていた、みずぼうそうに罹ったこどもが寝ている居室を案内してくれました。
二階には三つ畳の部屋がありました。急な造りの階段を上がって行くと、一番手前が女の子たちの部屋でした。一人の小柄な女の子が寝ていました。黒い瞳にショートカットが似合うその子は、脳性麻痺のため手足のつっぱりが強くて、自分で座ったり歩いたりすることはできません。さっそく職業意識が働いて「みせてね」と、ふとんをめくると、顔と身体のあちこちに、水泡とかさぶたが入り混じった典型的なみずぼうそうの発疹がちらばっていました。「かゆいの?」と尋ねると「ハイ」とのどを緊張させた声で答えてくれました。水を飲む時にはストローか吸飲みを使います。
この日の訪問をきっかけに、一二三学園のこども達、十人の健康管理を引き受けることに話がまとまりました。コンクリートの建物と、がらんとした灰色の部屋に置かれたベッドに、たくさんの障害児が入院している障害児施設とは違う、こぢんまりとした家庭的な雰囲気に親しみを覚えたからでした。それに国立病院で出会った芳子ちゃんが、私に投げかけた問いの答えを探したいという想いもありました。
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一二三学園に就職後生まれた長女が、生後間もなく障害をもつようになってからは、ホップ・ステップ・ジャンプとばかりに、言語障害学について学ぶことを選択して、一年間、国立聴力言語障害センターに付属する聴能言語専門職員養成所に通学しました。
言語障害学は、正常な言語発達を仮構し、年令の標準に照らしてどれくらいことばが遅れているのか、その原因はどこにあるのかを診断します。異常をどれだけ正常に近づけるかが、言語聴覚士の役割だとされました。その反影のように、ことばの遅いこどもの親も、どれだけ自分のこどもが同年令のこどものことばに追いつくかに心を砕き、特別な指導を求めるようになります。
ちょうど、娘は四歳で公立保育園に入園したところでした。最初のうちは別れると泣いていたので、それを振り切って保育園の門を出て、西武線の電車にとび乗り学校へ通いました。二週間くらい経ったある日、二歳の息子を連れて、迎えに行きました。肌寒さを感じながら三人で玄関を出ると「ハナ」という声がしました。あれっと思ってみまわしたら、園舎の横に椿の樹が立っていました。真っ赤なやぶ椿の花が、ぽとぽと地面に落ちています。弟の手をつないで裏側にある園庭にまわり、にっこり笑って「ホラ、ケイチャン」と、砂場を指さし教えてくれました。ことば数は少ないけれど、姉の役割をこなし、日常の生活にはそれほど不自由しませんでした。
標準の言語発達はしていなくても、伝えたい世界をもっているこども達の居るちいさな場所から、自分の言語臨床を築いていこうと思いました。
養成所を卒業後これまでに、ことばの遅いこどもとたくさん出会いました。どのこどもも、それぞれに完結してまあるい宙をその内にもっています。周りにいる大人たちがそれに気づかないでいると、どんどんその丸が縮んでいくこともあります。親や専門家や先生に問いつめられて、話すことに自信をなくし、自分はダメなんだと思い込んでしまうこどもを見てきました。
「君はそのまんまで素敵だよ」と、親や先生が思い、後押ししてくれるようになったら、こどもは自分の力を発揮して、ことばも育っていきます。
一歩社会にでると、話がうまくできないこどもは、その行動を理解されず、差別されがちです。幼稚園や保育園、学校に入ることが難しい場合もあります。私も、娘に寄り添って歩いているうちに、何度も、厳しい現実に突き当たりました。
ある時、タンスの引き出しを開けて、かきまわしていると、底の方から石鹸ケースに納められたハート形のファントムの塊が出てきました。すっかり忘れていたのに、こんなところに隠れていたんだと、手にとってその重みと冷たさを感じました。鈍い光を放ちながら、ファントムのハートは年月を越えて、そのこすっからい横眼で、私を挑発しているようにも見えました。圧倒的な力で人々を押さえつけ、殺してきたファントム戦闘機でしたが、最後にはベトナムから撤退する羽目に陥りました。溶けてしまえばただの灰色の塊です。誰でもそれを手にとり、投げ捨てることだってできます。現実は変わらないと諦めてしまわずに、もうちょっと踏み堪えてみるべきだなと、その時、私は思ったのでした。
そんな気持ちを出発点にして、この本を書きました。
ことばが遅いこどもとつきあっている人々、言語聴覚士をめざして勉強を始めた若い学生のほか、「ことばとは何だろう」「こどもはどのようにしてことばを話すのだろう」と考えたことのあることば好きのあなたにも、手にとっていただきたいと願っています。
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