まえがき

 これは映画批評(のような)本ですが、映画批評の本ではありません。
 映画の本て、売れないんですよね。
 映画批評の本はもうすでに山のように出ていますし、あらゆる雑誌には映画批評のコラムがありますし、通販のカタログやフリーペーパーにもたいて映画コラムがあります。加えて、TVラジオで評論家やレポーターやナビゲーターといった方々が映画関係情報をじゃんじゃん流しています。無料で映画批評が読めるのに、どうしてお金を出して映画について論じた本を読まなければならないのか。
 まったく、ごもっともです。
 私たちはもう映画を語る言説には飽食しているのです。
 そういう否定的状況下にあって、なお映画批評(のような)本をあえて世に問うのは、映画本は巷間にあふれかえっているが、「こういうふうに書かれた本」はまだ(あまり)ない、と私には思えるからです。

 「こういうふうに書かれた本」がどうしてあまりないかと申しますと、これは「コアな映画ファンのために書かれた学術的な映画批評の本」ではなくて、「誰でも知っている映画を素材に使った、現代思想の入門書」だからです。
 これまでもラカンやフーコーやバルトやデリダからの引用を華麗にちりばめた映画批評はたくさんありました。でも、それは「ラカンやフーコーは何を言っているのか?」という問いに答えるための引用ではなく、「オレはラカンとかフーコーとかデリダとか、そういうむずかしい本、読んでるんだからね。それが分かった上で映画批評書いているんだから、そこらのライターといっしょにしないでね」ということを言いたいがための引用でありました。それらの引用はただ、その批評的言説の「学術的信憑性」を高めるために装飾的に用いられているにすぎません。ですから、私は、ラカンやデリダを引用したおかげで、その論旨がたいへん分かりやすくなった映画批評などというものは見た記憶がありません。
 私はそういう本を書くつもりはありません。

 この本の目的は、「ラカンやフーコーやバルトの難解なる術語を使って、みんなが見ている映画を分析する」のではなく、「みんなが見ている映画を分析することを通じて、ラカンやフーコーやバルトの難解なる術語を分かりやすく説明すること」にあります。
 これは「現代思想の術語を駆使した映画批評の本」(そんなもの、私だって読みたくありません)ではなくて、「映画的知識を駆使した現代思想の入門書」なのです。
 これは例外的な試みだと思います。少なくとも、日本語で書かれたものとしてはまだ存在しません(たぶん)。
 このアイディアはスラヴォイ・ジジェクの『ヒッチコックによるラカン──映画的欲望の経済』(*1)からお借りしました(謹んでジジェク先生にお礼申し上げます)。
 ジジェクはヒッチコック映画を使ってラカン理論を説明し、あわせてどれほどヒッチコックが人間の欲望の構造に洞見を有していたかを語っています。これはみごとな仕事だったと思います。
 でもジジェクの本にもいささかの難点がありました。
 一つはラカン理論についての入門的な説明が不足していること(「ラカン歴・中級以上」でないと、ほとんど意味が分かりません)。
 一つはヒッチコックを使いながら、ラカン理論だけにしか言及していないこと(ヒッチコックはあらゆる学術的な物語論にとって「分析データの宝庫」ですのに)。
 というわけで、ジジェクのアイディアの「美味しいところ」はそのままありがたく頂いて、ジジェクを読んだ私が「このへんをきっちり書き込んでくれたら、『痒いところに手が届く』のになあ……」と慨嘆したところを補強したのが本書であります。

 本書の構成について簡単にご説明しておきます。
 第一章がタイトルロールの「映画の構造分析」です。ここではどなたもが(少なくとも題名くらいは)知っている映画史上に残る名画(『エイリアン』『大脱走』『ゴーストバスターズ』『北北西に進路を取れ』など)を素材に使って、おもにジャック・ラカンの欲望論、ロラン・バルトのテクスト論についての入門的な解説を行ってみました。
 最初に、ロラン・バルトの映画=テクスト論についての概論的な講義があって(ここは少し学術的な文章なので、慣れない人はあくびが出るかも知れません。その場合は飛ばして『エイリアン』解釈に進んで下さって結構です)。そのあとはラカンの話が続きます(これもあくびが出たら飛ばして『大脱走』と『ゴーストバスターズ』に進んで下さい)。
 第一章は「どうもあくびが出ていかん」という方は、第二章からお始め頂いても結構です。そのまま第三章まで進まれて、読み終えてから、改めて第一章に戻る、という方があるいは順序としてはよいのかも知れません(それにしても『エイリアン』論は、『女は何を欲望するか』(*2)に続いて、ついに5回目の「使い回し」となりました。「またか」とおっしゃらず、こうなったら「ウチダの『エイリアン』論は志ん生の『火焔太鼓』と同じようなもの」というふうにご納得頂くしかありません)。
 第二章「四人目の会席者と第四の壁」はヒッチコックの『裏窓』と小津安二郎の『秋刀魚の味』を使って、フーコーが『言葉と物』の冒頭で展開したべラスケスの「侍女たち」の解釈を再解釈するという企てです。アイディアを拝借したのは、『カイエ・ドュ・シネマ』所収のミシェル・シオンの『第四の壁』から(シオンさんにもアイディア提供につきまして、御礼申し上げます)。
 第三章は「アメリカン・ミソジニー」。これはハリウッド西部劇論+ジェンダー論です。ハリウッド製の西部劇が女性嫌悪イデオロギー(ミソジニー)で満たされていることは、すでにジェンダー論的には「常識」に属しますが、どうしてそうなってしまったのかについてはこれまで納得のゆく説明を聞いたことがありません。本書はこれを「男女比率不均衡」および「弔い」を手がかりに解釈してみました。
 アイディアのもとになったのはジョーン・スミス『男はみんな女が嫌い』(*3)の中のマイケル・ダグラス批判(スミスさんならびにこの本を発見して翻訳された鈴木晶先生のご苦労にもお礼申し上げます)と『西部開拓史』の中のデイビー・レイノルズの台詞(「カリフォルニアでは男四十人に女一人よ」)でした。

 こうやって改めて解題してみると、いろいろな先行研究のアイディアを切り貼りするばかりで、「いったいどこにウチダ君のオリジナリティはあるのかね」と詰問されそうですが、本人なりの創意工夫はしているのです。
 本書では何よりも「学術的厳密性」と「ユーザー・フレンドリー」の調和を最優先的に配慮致しました。「志は高く、腰は低く」というのが本書の基本姿勢であります。
 「高品質・低価格」が実現できたかどうかは出版社サイドの営業事情などもあり、確信が持てませんが、「高品質・低姿勢」というポリシーは貫徹したいものだと念じております。
 以上で「まえがき」は終わりです。




*1…露崎俊和他訳、トレヴィル、一九九四年
*2…径書房、二〇〇二年
*3…ジョーン・スミス、鈴木晶訳、筑摩書房、一九九一年