旅で覚えた、生活のシンプル――はじめに

 たとえば、ネパールの小さな茶屋。
 狭くて天井の低い店。汚れた漆喰の壁。煉瓦のような石を積みあげた階段。がたがた揺れるテーブルと椅子。大きな鍋のなかのチャーは、生姜やカルダモンやシナモンなどのたくさんのスパイスとヒマラヤでとれた紅茶をぐらぐらと煮立てて、たっぷり砂糖をいれてつくる。
 ネパールのひとたちには、一口サイズの素焼きの使い捨てカップでチャーが運ばれてくる。わたしたち外国人には、小さなガラスのカップに同じチャーがなみなみとつがれていた。
 外には埃っぽい赤い土の道。
 ヒンドゥー教の神様である牛がゆっくりと歩いている。後ろから自転車の後ろに荷台のようなものをくっつけたリキシャが、ベルを鳴らして追いぬいていく。
 着古したサリーを優雅に身につけて、重そうな籠を背負って休み休み歩いていくひと。乾燥した空気のなかで手鼻をかみながら、すたすたと歩いていく白い髭のひと。場ちがいなほど背が高くて体格のいい米国や欧州から来たらしいバックパッカーが、通りを横ぎっていく。

「どうしてアジアにばかり行くの?」と訊かれることがある。
 たとえば誰かを好きになるとき、理由を考えてから好きになったりはしない。たいていの恋がある日突然やってくるように、何かを好きになるときも、ある日突然なのだ。理由なんかないのと同じ。
 わたしのアジアに対する気持ちは、果てしなく続く長い恋のようなものかもしれない。
 不自由なスケジュールをやりくりし、貯金をはたいて、出かける先は、いつもアジアのどこかだった。
 それも、誰もが過ごしているなにげない毎日、世界のどこにでもある日常の風景が見られるようなところばかり。有名なお寺や世界遺産に指定されるような名所旧跡、自然がもたらした広大な風景にも心ひかれないわけではないけれど、それらを見に行くことと、裏町の屋台でごはんを食べることが同じくらい大事だったりするのだ、わたしには。
 どこにでもあるような街や村の、市場や屋台や食堂で、地元のひとたちといっしょにごはんを食べる。わたしとはちがう人生、ちがう日常、ちがう暮らしをほんの少しだけでものぞかせてもらえたようで楽しくなる。それから、ちょっと生活に疲れたようなおじさんや、小さな赤ちゃんをあやしているお母さん、幸せそうな恋人どうしなんかを見て、みんな同じなんだなと思ってしみじみうれしくなったりもする。

 そうして、アジアで暮らすいろいろな人々の暮らしを見ることは、日本での自分の暮らしを見つめ直すきっかけにもなってきた。
 いろいろなものを持ち過ぎて、ついでに人生にもいろいろな要素を持ちこみ過ぎて、複雑にからみ合って、自分でも整理できなくなった日常を解きほぐすヒントみたいなものをアジアへの旅でたくさんもらったような気がする。
 行くたびに変わっていくアジアにとまどいながら、裏ぎられたり手痛い目にあったりしながら、熱帯のけだるい空気に抱かれて、両手両足どころか頭の中身もこれまでの人生もまるごと全部を太陽のもとにさらして、身体いっぱいでぐーんと伸びをするようなここちよさにひたる。
 そんなわたしの、日本でのふだんの暮らしについて書いてみようと思う。
わたしの小さな経験が、もっとシンプルで気持ちのよい生活をしたいと願うあなたにとって、わずかでもたすけになりますように。