お年寄りの話は、からかえない

 さて本日は、トゥルバヤーでもあった私が、いかにして今のようなユンタカーになったのか、そのお話をしたいと思います。
 トゥルバヤーとは、ボーっとした者という意味です。ユンタカーはお喋り屋さんです。引っ込み思案で言葉少ない少年、反対にぺちゃくちゃユンタクするのも、照屋林助というこの私でした。
「何を言っている、お前は若い時からずっと、ずーっとユンタカーだったじゃないか」と、どこかから「ユクサー(ウソつき)!」というヤジが飛んできそうですね。でも私は、ある日ある場所ではお喋りで、場所が変わると、うつむいて一言も発することのできないような子どもでした。そのどちらか片方の私しか知らない人もいます。ましてや私は、沖縄が敗戦後の混乱から抜け出そうとしていた時代に、歌と笑いの劇団「ワタブーショウ」を率いて沖縄各地を飛び回っていましたから、そんな闊達な男がトゥルバヤーだったことなど想像がつかないかもしれません。
 しかし私は、トゥルバヤーであり、ユンタカーでもあったのです。
小さい頃の私は自分が二重人格じゃないか、心が病んでいるのではないかと、ずいぶん悩みもしました。 
 この本には、これから「沖縄」と「老人」という二つのキーワードがなんども登場しますが、私のこのような悩みを消す大きな助けとなったのがウチナーのトゥスイー(年寄り)たちでした。最初は何のことかわからなかったこの人たちの話が、成長するにつれて「そういうことだったのか」と納得できるようになる。それによって人の心が少しづつ見えてきたのです。
 父親に、いつも言われていた言葉がありました。「年寄りの話をよく聞きなさい」「年寄りの話は、学校の先生のそれよりもありがたい」といった言葉です。沖縄にはまた、こんな言い方もあります。
「若者の話や、むどぅかりーしが、とぅすいーの話や、むどぅからん」(若い者の言うことは作り話みたいなものだが、お年寄りの話は、からかおうにも、からかえない)
 今の私は、こういう言葉が、どれほど大切であるかがわかります。少年時代、オジイたちは「おい林助、座れ。話、聞かそう」と言って私を呼びつけたものです。すると私は「あーあ、また始まった」とよく逃げ腰になりました。しかし、いやいやであっても耳を傾けていたことが、後になって実になったのです。
 私に話を聞かせてくれた年寄りや大人たちの多くは、父親のもとに集まって三味線(三線)のお稽古をしている人たちでした。彼らは元士族です。私の父親である照屋林山(ルビ=てるやりんざん)は、琉球古典音楽の最大流派、野村流の幹部でした。かつての琉球王朝の流れを引く者たちが、その文化と気概を忘れないために私の家で三線を持ち古典を学ぶ。そして、お稽古の休憩のときともなると、ヒゲを生やしたそんな年寄りたちが、私を前にして語り始めるのです。
 その中には、ハワイやアメリカ本土から帰ってきた人たちがいました。彼らは沖縄が大変に貧しかった頃に、南方へ出かけて成功した人たちです。子どもたちは二世となって現地で跡を継ぎ、自分たち夫婦はどうせ死ぬのであれば余生を沖縄でと、郷里に帰ってきていたのです。だから戦争(太平洋戦争)が勃発する直前の国際情勢もよく知っていたし、同時に沖縄に対する郷土愛がとても強い人たちでもありました。私は彼らから沖縄の昔話を聞いたのです。私の傍にいた大人たちも、帰島したこの人たちの、日本国内にいてはとうてい知りえない情報に耳をそばだてたものでした。
「ハワイはこんなだった。アメリカ本土はこんなふうだった」
 特にハワイと沖縄との貧富の差は、よく話題に上りました。ハワイには戦前からたくさんのウチナーンチュが移民していたからです。
 それは今日にも太平洋戦争が始まろうとしている頃のことでした。この人たちはすでに「日本は負けるよ」と言っていました。聞いていた誰かが「そんなことを公然と言っちゃ、巡査に引っ張られるよ」と言うと、こんどはヒソヒソ話で「きっとアメリカは上陸してくる。だからそれに備えて、みんなは今から親戚や仲間と連絡を取り合って、遠い山原へいつでも逃げることができるように準備をしておきなさい」と忠告してくれたのです。
 おかげで私たち照屋の家の者は、アメリカ軍が沖縄本島へ上陸してきたとき、なんとか北部の山原へ逃げおおせることができたのでした。
 私が舞台に立つようになったとき、林助の話は面白いと言われたのも、私一人の才覚だけではありません。沖縄の年寄りから教わった逸話や民話の蓄積があったからこそです。私は子どもの時は学校をサボってよく「山学校」をしていましたが、山学校の校長様として君臨できたのも、この人たちのおかげでした。年端もいかない子どもが、老人から聞いた珍しい話を得意になって話していたわけです。古い沖縄の歌を覚えたのもトゥスイーのおかげです。
 年寄りの話には、人間が生きていくために必要なことがたくさん隠されていました。たとえば「ゆるし」です。
人は、他人を許さないから悩みが深くなるのです。
 他者を許せばいい。「そうか、しかたがない、許してあげよう」と心を方向転換すれば、スッと気が楽になります。
 こういうことは私が後に神経症(ノイローゼ)など人の心のあり方について学問として教えられたことですが、実は昔から老人たちは先達の言葉を借りたり、民話を引き合いに出したりして若い者に伝えようとしていたんです。彼らは「なになに療法」といった専門用語を使わなかった。学者と沖縄の老人たちの違いは、それだけのことでした。