『テンジン』訳者あとがき  

 「テンジン」という名を初めて聞いたのは、 私がまだ小学生4年の春の終りだった。朝鮮戦争の末期で、あいにく私は小児結核に患って、4年の前期を休学して、医者から自宅療養を命ぜられて、外出もできないで、家で寝たり起きたり、ゴロゴロしていた頃である。多分6月の初めだったろう、私の父が、興奮しながら新聞をもって、私の子供部屋に入ってきた。「ビッグニュースだ! テンジンとヒラリーが、エベレストをとうとう征服したぞ!」。エベレストが世界最高峰であることは、学校の地理の時間に教わっていた。しかし、テンジンという名も、ヒラリーという名も私には初耳だった。アマチュア登山家の父が、ヒラリーは、ニュージーランド出身の登山家(本職は、蜜蜂の飼育)で、テンジンはそのお供の「シェルパ」だと教えてくれた。その日の朝刊には、かの有名な「頂上に立つテンジン」(ヒラリー撮影)が一面を埋めていた。来る日も来る日も自宅療養で、気が滅入っていた私には、このニュースはきわめて痛快だった。闘志が自然に湧いてきた。私も病気が治ったら、また山登りを始めようと心に誓った。幸い、普通に運動ができるようになった中学時代から、私は父や妹たちと、週末に近辺の丹沢山や秩父の山々などでハイキングや沢登りを楽しみ始めた。高校時代には、足を伸ばして、八ヶ岳や谷川岳などに、大学に入ってからは、陸上部で競歩やマラソンを始めながら、槍や穂高など北アルプスにそびえる3000メートル級の山々にも挑戦した。30歳で渡米して以後は、欧米でロッキー山脈の最高峰ロング・ピークやスイス・アルプスのマッターホルンなどの4000メートル級の雪山にも挑戦し始めた。
私の本職は過去30年あまり、「癌の研究」(特に新しい制癌剤の開発)であり、
自らヒマラヤ地方まで出かけて、本格的にエベレストに挑戦するヒマも意欲もとてもないが、世界最高峰に今でも挑戦し続ける世界中の老若男女の闘志やファイトに、いつも頭が下がる。私が赤道を越えて、豪州のメルボルンで研究を始めたのは、もう15年以上も昔のことである。ある日、メルボルンの古本屋で偶然にも、ヒラリー郷の名著『ハイ・アドベンチャー(高山への冒険』(1955年出版)を見つけて、貪ぼるように読んだ。そして、1953年当時のテンジンとヒラリーの素晴らしいチーム・ワークぶりの詳細(特に、山頂への最後の難関「ヒラリー・ステップ」をいかに克服したかという話)を初めて知った。その後みつけたヒラリー郷の自伝『頂上からの展望』(1999年出版)も、私の愛読書の1つになった。今回、(シルク・ロードを経て、チベット高原を訪れた経験のある)広川弓子さんと共訳した英文原書は、2001年のクリスマス休暇中に、メルボルンの本屋の店頭で、飛ぶように売れ始めたベスト・セラーである。著者の名を調べたら、なんとあの有名なテンジン・ノルゲイの孫にあたるタシ・テンジン(エベレスト登山家)とその奥さんであるジュディ(オーストラリア人の登山家)である。そして驚くなかれ、夫婦ともシドニーに住んでいることがわかった。早速、本を手に入れて、例によって貪ぼり読んだ。実に面白い。地元「シェルパ」の立場から書かれた最初のエベレスト・ストーリーであった。この本を通じて、テンジンやシェルパの祖先が、東方(チベット高原)からネパールに移ってきた民族であること、また生涯文盲のテンジンが、戦前初めてエベレスト遠征隊に志願したとき、彼の最大の武器は、かの有名な「明るい笑い顔」であったという愉快なエピソードなどを、私は初めて知った。
 数ヵ月後、シドニーにある出版社(ハーパー・コリンズ)を通じて、テンジン夫妻に連絡をとったところ、ジュディから「夫のタシは、只今、スイス遠征隊と2度目のエベレスト登頂中です」という返事が戻ってきた。実は、2002年のエベレスト遠征には、特別の意味があった。ちょうど50年前(1952年)、タシの祖父テンジンは、スイス人の遠征隊とエベレストに2度も挑戦した。彼の無二の親友レイモンド・ランベールとテンジンは、頂上からわずか200メートル下の地点で、悪天候と酸素不足のため、ついに頂上アタックを断念した。そして、近い将来、一緒に再挑戦することを誓った。別れ際に、レイモンドは友情の印として、自分が大事にしていた赤いスカーフをテンジンの首に巻いてやった。
 ところが翌年、テンジンは英国のエベレスト遠征隊から参加を依頼された。彼自身は余り気が進まなかったが、レイモンドから「初登頂への絶好のチャンスを逃すな!」と説得され、英国隊への参加を引き受けた。おかげで、テンジンはヒラリーとチームを組んで、見事に山頂を極めるのに成功した。そのとき、テンジンはレイモンドの形見であるあの赤いスカーフを大事そうに首に巻いて、頂上に達した。こうして運命の皮肉か、この2人の親友同士は、一緒にエベレストの山頂に立つ機会をとうとう失ってしまった。それから半世紀の月日が流れ、レイモンドの息子イヴ・ランベールも、立派な登山家に成長した。そしてちょうど50年目に、父親が生前に果たせなかった夢を実現するために、父の足跡を正確にたどりつつエベレストの山頂に挑む決心をした。その話に感動したタシは、このスイス遠征隊に同行して、とうとう5月16日の朝、イヴと一緒に山頂に達した(詳しくは、「岳人」の2002年9月号掲載の特別寄稿『エベレスト、50年前の誓い:テンジンとランベール』を参照されたい)。なお、この先祖の夢を実現した両家の友情物語、つまり2002年のエベレスト遠征記録と50年前の遠征記録を巧みに組み合わせた映画が、同行のスイス隊によって制作された(タシが語り手役)。そのビデオ(60分)の観賞会を、「エベレスト登頂50周年記念」の一環として、できれば有志の協力を得て、私が東京に一時帰国する予定の6月初旬に開きたいと思っている。
 この邦訳に先立って大変お世話になった「岳人」の永田秀樹編集長に、まず感謝したい。特に参考書として紹介された鹿野勝彦著『シェルパ、ヒマラヤ高地民族の20世紀』(2001年出版)は、大変役に立った。また、この訳本に写真の転載を快よく承諾してくれた多くの諸氏にも感謝したい。最後に、この邦訳に、終始情熱をもって取り組んで下さった晶文社のスタッフ、特に島崎 勉氏に深く感謝の意を表したい。

2003年3月、初秋のメルボルンにて
訳者代表: 丸田 浩