あとがき

 あるとき、偶然、大上宇市の名を知った。自分の郷里のすぐ隣町に、世に隠れた博物学者がいたというのは新鮮な驚きだった。島成園を知ったのも偶然だった。たまたま目にした一枚の絵がきっかけだった。篁牛人のことは、ある女性が手紙で知らせてくれた。
「イケウチ先生の好みに合いそうですから」
 そんな断わりつき。「先生」とあるのは、以前に教室で教えたことがあったせいである。魚谷常吉は何げなく古書店で出くわした本がはじまりだった。そんなふうに、とりたてて自分から求めたわけではないのに小さなリストができていった。
 あるころまで思っていた。いずれも偶然の幸運であって、ただそれをよろこぶだけでいい。
そのうち気がついた。どうやら偶然だけではなさそうだ。きっかけはそうだったかもしれないが、あきらかに自分のなかに、偶然を必然にするものがある。われ知らず求めていて、そこに種が落ち、芽をふいた。そうでなくては記憶の手前を、こともなく通り過ぎていったはずである。
 おりにつけ一人ひとり調べはじめた。おおかたが世に埋もれていた。あるいは、よく知られた人とのかかわりで、ようやく口にされる。おのずと参考文献といったものは、きわめて少ない。
 それに私自身、埋もれていることの不当さを申し立て、再評価を力説するといったことは考えていなかった。調べだしたのは、もっと別の関心からだった。もともと、その種のこだわりに遠い人たちである。ほかに心を満たすことがあって、世才にまでまわらない。だからこそ世に隠れた。
 もうひとりの南方熊楠、もうひとりの上村松園、もうひとりのラフカディオ・ハーン、もうひとりの棟方志功……。勝るとも劣らない資質と才能をもち、同じときに同じ場で力量を競っていたこともある。それが一方は文化勲章や評伝や全集に飾られ、もう一方は忘れられた。何がそのようにさせたのか。
 身近に見ていた人。そういう人が見つかると、訪ねていって話を聞いた。たいていは世俗にうとい「異才」たちをハラハラしながら見守っていた。その人たち自身が、なんとも個性的で、どうかすると主人公以上に世俗にうとかったりするのだった。
 ゆたかな才能と勤勉さ、みずからであみ出した方法。何も欠けるところがなかった。ただ貧しさに足をとられた。あるいはせっかくのチャンスに「中央」へ出そびれた。世間に妥協するのをよしとしなかった。意固地になったり、時流に逆らった。あるいはわざと無視した。世にときめくよりも、自分の世界を大切にした。
 人それぞれ理由はちがっている。二つ、また三つと、事情が重なった場合もあった。そのうち、その人のいるべきところがなくなった。あるいは、他人がちゃっかり入りこんでいた。
『二列目の人生』といったタイトルは、記念写真になぞらえている。いつもそのことを考えていた。卒業アルバムなどでおなじみだろう。写真の一列目、まん中にクラス担当や学級主任といった教師がいると、その左右に委員長、副委員長、さらに隣合って役つきの優等生。
 二列目はどうだったか? 写真では二列目のはしっこでソッポを向いているが、ポスターを描かせると、やたらにうまかった。運動会になると、がぜんスターになった。弁当の早食いにかけては誰もかなわない。なぜか女の子に人気抜群というのもいた。
 場ができるたびに少しずつ書いていった。季刊誌『銀花』(文化出版局・一九九九五年春-一九九七年夏)、筑摩書房のPR誌『ちくま』(二〇〇〇年七月-十二月)、『論座』(朝日新聞社・一九九八年五月)、『言語』(大修館書店・一九九四年十月-十二月)。
 結局、長短とりまぜて十九人を書いた。リストにあった、わがひそかな意中の人。どこかしら少年のころの“宝もの”と似ていた。机のひき出しの奥にしまっていて、ときおりそっと確かめて満足した。
そのうち二人を省いたのは、二列目にも収まりきらない気がしたからだ。『銀花』のときの萩原薫さん、『ちくま』のときの磯部友子さん、とりわけ晶文社の篠田里香さん、どうもありがとう。心やさしく、しっかり者の女性たちのおかげで、愛着のある本ができた。ずっとかかえていた人生の宿題を、やっとすませたような気がする。

二〇〇三年三月
池内紀