プロローグ

 私が吉原正喜の名前を知ったのは今から三十年近く前、小学校四年生、昭和四十九年(一九七四)だった。その年の暮れ、少年向けに書かれた『野球入門 巨人軍』(島崎和夫著・秋田書店)によってである。自分と同郷のこんな凄いキャッチャーがいたのか!
 たまたま、この年はやはり同郷の熊本出身の英雄・川上哲治が巨人軍の監督を務めた最後の年であり、ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄が引退した年でもあり、とりわけ印象深かった。
 昭和十二年(一九三七)の夏の甲子園で熊本工業は、投手川上、捕手吉原のコンビで準優勝した。巨人軍は川上よりも吉原を即戦力の捕手として評価して入団させたこと、彼は全身ファイトの固まりで、ベンチ前に上がったファウルを追いかけ、コンクリートの壁に激突、頭皮が?がれながらもボールを離さなかったことがその本に記されてあった。また川上、吉原の力が巨人軍の第一次黄金時代を支えたとも書かれてあった。
 とくに打撃の神様と称された川上が投手として、吉原との抱き合わせで巨人に入団した事実は野球少年だった私には衝撃的だった。
「俺の郷里には川上よりもすごい選手がいたのか」
 それが吉原に対して抱いた最初の印象である。そして太平洋戦争のためにビルマで戦死したことにも彼の悲劇性を強く印象づけられた。
 生前の吉原を知る人はよく言う。
「ファイトむき出しで、捕手でありながら恐ろしいほど足の速い男だった」
「一塁へのバックアップには打者走者を追い抜いて必ず先に一塁に着いていた」
「声が大きくて、きびきびした動作でチームを引っ張り、ヤクルトの古田みたいな捕手だった」
「ファウルフライを捕るのが抜群に上手く、快足を活かしてネットに齧りつきながらボールを捕っていた。二塁ベース近くまで捕りに行くときもあった」
 当時は吉原を見るために球場へ足を運ぶファンも多かったという。以来、私の脳裏には巨人を代表する捕手と言えば、吉原という名前が浮かぶようになった。九連覇の時代に本塁を死守した森昌彦でもなければ、私の中学高校時代に活躍した山倉和博でもない。彼らは堅実であるが地味に過ぎ、走攻守にわたってファンを酔わせるほどの「華」がない。人に与える迫力という点では吉原にはるかに及ばないのである。
 吉原と同期入団(昭和十三年)の名二塁手・千葉茂は今もこう言ってはばからない。
「後にも先にも吉原以上の捕手は巨人にはおらん。きびきびした動き、足の速さ、どれをとっても奴に敵う捕手はおらん。ジャイアンツのナンバーワンの捕手は吉原ですよ」
 吉原のような熊本人の気性を表すのに「肥後もっこす」という言葉がある。頑固で偏屈な性格を表したものだが、一方では自分の唱えた意見については相手がどんな権威であろうと断固貫き通すといった反骨精神を意味する言葉でもある。自らの怪我も恐れず、果敢にファウルボールを追いかけ、コンクリートに激突するまで追った彼の姿は、まさしく「もっこす」の面目躍如たるものである。不器用な生き方ではあったが、彼はまさしく今の時代が失ってしまった「骨太の男子の気概」を持った男であった。
 吉原が戦死してすでに六十年近い歳月がたった。
 だが今彼の姿を追うことは、現代の野球界において、さらに私と同世代の男性たちが失い忘れ去った「男の匂い」という意味においても、爽やかな一石を投じてくれるに違いない。

 二○○○年七月二十一日、私は福岡県太宰府市にいた。西鉄福岡駅から大牟田線に乗っておよそ二十分南に下ると二日市という駅に着く。ここで乗り換え、西鉄太宰府線の終点が太宰府である。昨日まで三十度を超える真夏日が三日ばかり続いていたが、今朝は幾分涼しい風が吹き、汗ばんだ胸元には心地よささえ感じさせる。駅の近くには受験生で賑わう太宰府天満宮、周辺には古代に作られた朝鮮式の山城である大野城、新羅の攻撃に備えた堤である水城が大野城を取り囲むように築かれている。このあたりの風景のどれもが古代の匂いのする一帯である。
 太宰府駅から車で十分ほど東へ行くと国分寺という古いお寺がある。そこに吉原正喜が静かに眠っている。
 じつは吉原にはお墓と呼ばれるものが二ヵ所にある。彼の遺骨を納めているはずのここ国分寺と、熊本市の本妙寺である。本妙寺は熊本城主の加藤清正が眠る日蓮宗の寺であるが、本堂へ向かう五百段の石段の途中に、高さ九十センチの石碑の上に野球のボールを形どった石の玉が置かれてある。その中心には巨人軍のマークと、石柱に市岡忠男(当時巨人軍顧問)の文字で「野球の権現、吉原選手の碑」と刻まれている。
 野球のボールを形どった墓はこの吉原の墓と三重県伊勢市(旧宇治山田市)で眠る伝説の名投手の澤村栄治の墓がよく知られているが、他にも都市対抗野球の「久慈賞」の由来となった名捕手の久慈次郎の墓などもある。吉原のものは昭和三十六年、当時巨人軍の監督だった川上哲治が、
亡き親友のために、球団に掛け合い、試合の興行費用の一部を割いて、建立費用としたのである。
 石段の脇には「巨人軍吉原選手の墓」と書かれた標木が立てられ、今でも熱心なファンが時々訪れる。
 二日市の駅から私は、吉原の令妹の高木恵美子さんとタクシーで国分寺に向かった。車窓に、
筑紫の山々が間近に迫ってくる。
「戦死の公報が届いたのが、昭和二十年の五月十三日なんですよ。その知らせを聞いた母親が、
玄関でばったり倒れ込んでしまいましてね。よほどショックだったのでしょう。それから一切野球を見なくなったんです」
 吉原は昭和十九年十月十日、インパール作戦の最中にビルマで病死したとも、自決したとも伝えられている。彼の母親は半年以上にわたって息子の死を知らず、ひたすら無事を祈り続けてきたのであった。以来、母親は急に老け込んでしまったと高木さんは言う。
 長男の正喜には四歳上の姉ミサオと、六歳下の弟の康、妹の恵美子、十歳違いの弟稔、そして妹の和子とつづくのだが、この十年の間に長女のミサオと三男の稔は亡くなった。現在、彼の近親と言える者は七歳違いの妹恵美子さんと、フロリダ在住の和子さんの二人だけになってしまった。
今、彼がもし生きていれば八十二歳になる。
 国分寺には同じく戦死した弟、康も眠っている。康のときは、遺骨も木箱の中にあったようだが、兄(吉原)のときは箱の中には何もなかったような気がする、と彼女は首を傾げた。
 トロフィーも当時のユニフォームも、そして昭和十五年の満州遠征の際に彼が受賞した最高殊勲選手の表彰状も、彼の活躍を示す遺品はすべて空襲で焼けてしまった。
「川上さんと兄は親友と言っても性格が全然違いますからね。川上さんは真面目な方で、兄は天真爛漫。豪快な悪ガキですよね。だからバッテリーで呼吸があったのかもしれません」
 生前の吉原を思い出して、高木さんは言う。私たちは鍵を借りて、北側の道を挟んだ納骨堂に向かった。短い階段を上がり、ドアを開ける。骨を納めた小さなロッカーが何列にもわたって整然と並んでいる。
「ここに兄はいます」
 彼女はそう呟いた。私たちは靴を脱いで、中へ入った。薄暗い室内の一番奥に彼の遺骨があるはずだった。ロッカーを開けると、奥行きが五十センチにも満たない狭い空間に、白い布に包まれた彼の木箱と、弟の康の木箱が現われた。彼女は二つを交互に手に取ると、重さの違いを自ら確認していた。
 「康の方は骨が入っていると思うんです。だけど兄のほうは、こんなに軽いでしょ。誰も開けたことがないから、よく判らないのですが」
 彼女は私に木箱を手に取るように勧めた。両手で?んでみると、中から軽い小石が転がるような小さな音が聞こえるだけで、骨が入っている気配はない。私はにわかに箱の中身をこの手で確認したい衝動に駆られた。彼の生の証を示すものはないのだろうか。それが彼の爪や髭、皮膚の一部、髪の毛などの些細なものでもいい。彼の肉体の一部が残っていてくれさえすればと、私はかすかに期待した。吉原の生身に触れたいと思った。
「開けてみてもいいでしょうか」
 私の唐突な申し出に、「何もないとは思いますが」と彼女は答え、快く許してくれた。白い布に手を掛け、きつい結び目を解くと、所々が?げ落ち、黒っぽく染みた箱が現われた。薄い板の蓋を開けると、空っぽの箱に人差し指大の木の札が一枚置かれてあった。
 木札は白い紙に包まれ、墨で「吉原正喜之霊」と書かれていた。やはり彼の骨も、体の一部も、形見となるようなものは、何も残っていなかった。吉原という人間はビルマのジャングルの中で遺体のすべてが朽ち果て、埋もれ、異郷の土になってしまった。もはや今となっては、彼の姿は人々の記憶の中にしか存在していない。
「やはりなかったですね」
 彼女の小さな声がした。私は小さなため息をひとつつくと、再び箱に蓋をして布で静かにくるんだ。彼の空っぽの木箱を元の場所に戻し、花を添えながら、掌を合わせた。窓からは道路工事の人たちらしい声が聞こえてきた。そのとき四月に会った川上哲治氏の言葉が甦ってきた。氏は私との会話が途切れたとき、雨に打たれた自宅の庭の植木を見つめながら、誰に言うともなく静かにつぶやいたのだった。
「今の時代から見ると昔の職業野球は酷いものだったですよ。人気もまったくなかった。吉原はそんな時代に精一杯がんばってプレイして、兵隊に取られて死んでしまった。気の毒だったと思う。せめて盛んになったプロ野球を見せて死なせてあげたかった」
 氏はソファーに向き合って座った私から顔を逸らし、「彼の霊あらば、見て欲しい」とも付け加えた。今にして思えば、氏の胸中に熱いものが込み上げ、若僧の私に表情の変化を悟らせないためのしぐさだったのかもしれない。
 戒名は「願行院釈光義信士」。
 吉原の存在がまだ人々の記憶の中に鮮烈に残っているならば、彼の姿を現代に甦らせる今が最後のチャンスではないか。こうして私の時代を遡る取材行が始まった。