序文──ウディ・アレン



 七四丁目のブックス・アンド・カンパニーのことは、店のオープン当初から、その存在に気付いていた。僕は七四丁目に住んでいて、常連客のひとりだった。近所を散歩がてら、何度も、何度も訪れた店。ブックス・アンド・カンパニーは、僕の散歩の最終目的地として、そこに行くのだという使命感のようなものを与えてくれていた。ときには最終目的地がミュージアムだったこともあるが、それは近所にいくつもミュージアムがあったからで、たいていはブックス・アンド・カンパニーにたどり着いた。ふらりと立ち寄って、店内の本を引っかきまわし、何か刺激を与えてくれるものを探すにはもってこいの場所だった。そして家に帰って、僕はまた少し原稿の続きを書いた。僕は自分の時間を文章を書くことに費やしている。
 あまり読書好きの子供ではなかった。本を読みはじめる前から文章が書けたし、書くのは大好きだった。小学校一年生で書き方を教わってすぐに、クラスの作家といえば僕という具合に、いつも物語を書いてばかりいるような子供だった。昼間に時間が空いたなら、腰を落ち着けて読書をするよりは、腰を落ち着けて何かを書くことの方をはるかに好む人間だ。映画を制作しているのも、本当は自分の著作を表現するためにやっているだけだ。朝起きるとすぐに何かを書き始める。文章の鍛練はできているが、僕にとって書くことは楽しみなので、実際は鍛練など必要ない。自宅で何時間も文章を綴る。そして散歩にでかけ、もしもそこにブックス・アンド・カンパニーがあればふらりと立ち寄る。そんな具合だった。
 歳をとってから本をたくさん読むようになった。世の中で機能していくためには、人は本を読まねばならない。それで青年期の終わりごろから大人になったいまでも、僕はかなりの量の読書を続けている。本屋をぶらぶらして読みたい本を選ぶのは昔から好きだった。しかし、読書は楽しみというよりは、まずは必要に迫られてするものだという意識が常に頭の中にある。読まないことには、本当に世の中の動きについていけないからだ。知らないわけにはいかないことが多いから、フィクションもかなりの量を読んだが、ノンフィクションを読む方がずっと多かった。僕は、科学や政治や、ときには哲学の本を読むのが好きだ。だが、読書を楽しんでいると、まるで時間を無駄にしているような気分になる。僕にとって読書とは、常に教訓的要素と目的意識を持ってするべきことなのだ。もしも本を読んでいて楽しくなってくると、「これは内容が軽すぎる。もっと難解で謎解きが必要なハイデガーか何かを読まなくちゃいけない」と感じるのだ。ブックス・アンド・カンパニーには、僕に興味を与えてくれるすばらしいタイトルの書物が揃っていた。
 映画『世界中がアイ・ラブ・ユー』では、ブックス・アンド・カンパニーを撮影した。それはこの店が、僕の近所でとても誇りに思えるもののひとつだったからだ。そして、だからこそ、この地域の、とりわけ僕の住む一角がこの書店を支えていた。ブックス・アンド・カンパニーは、この地域の住民が自分たちを誇りに思えるだけの、それだけの価値のあるすばらしい書店だった。人々が集い、有名作家たちが訪れ、彼らの作品を朗読した。この書店には本物の文化と呼べるだけの何かが存在していた。
 ブックス・アンド・カンパニーが閉店してしまったいまでは、本が必要なときには、近所にはいくつか行きつけの書店があるし、必要な本がはっきりしているときには、それが手に入る一番近くの店に行く。しかし書店に足を踏み入れた瞬間に、本や文学に対する愛情が滲み出ているような雰囲気に包まれた、あのときのような感覚は味わえない。
 ブックス・アンド・カンパニーの閉店は僕の近所にとって痛烈な損失であった。ホイットニー美術館とブックス・アンド・カンパニーは、七四丁目と七五丁目の間に心地よい小さな文化の場を作り上げていた。あれほど質の高い書店を失ったのは、不名誉なことだった。読者の皆さんがブックス・アンド・カンパニーの物語に興味を持ってくれることを願っている。僕にとって興味のある話だからだ。ブックス・アンド・カンパニーは本当にすばらしい書店だった。

一九九八年四月二九日
ウディ・アレン