雑読って? 読んで字のごとく。乱読でも熟読でも、いわんや声を出して読む日本語でもない。雑多な読書である。学問的権威や大系というものと交じり合うことはない。あっちにいったり、こっちにきたり。坪内さん風にいうなら、こうである。 
 ――売れない売れないといわれながら、毎日、驚くほどの新刊が刊行されていく。その大半はクズ本。その一方で本らしい匂いを持った新刊がひっそりと、刊行されている。多くの人が気がつかない、そんな「地味な本」が、私は大好きだ―― 
 当代一の本好きで本の読み手でもある著者が、書店の前で立ち止まり手にした、そんな本が一冊に並んだ! 
 ブラドギー『わたしの死の物語』。宮崎芳三『太平洋戦争と英文学者』。下関マグロ『露出者』。エドマンド・ウィルソン『愛国の血糊』。ニューヨークからの帰り、飛行機で読んだ本。『これは恋ではない 小西康陽のコラム1984―96』。フィリップ・アリエスを読むということ。『イメージのなかのヒットラー』。『座談会明治・大正文学史』。山田稔『下鴨北園町九十三番地』。カーヴァー『英雄を謳うまい』。……。 
 取り上げられている本を見ると、一見、何の脈絡もない。だが、一本の道が無数の小道とつながっているように、一冊の本も無数の人と交差しているのだ。読書が持っている自在さを教えてくれる。