私の人生はこんなふうだ。テレビを見るのとまったく同じように、数秒おきに容赦なくチャンネルを変えて調べる。私はテレビをスライド映写機のように使う。居間のその灯りが点いては消え、点いては消えする――つぎは、つぎは、つぎは。熱心に見たり、何分もつづけて見る価値のある番組は、ほんとうに少ない。私の人生?似たようなものだ。なにか一つのことに長くとどまっていられない。だから、退屈しても、ずっと退屈していられない。
 問題、その一。テレビの見過ぎ。アイデアを出す、これがエコーでの私の仕事。エコーは自分でつくったオンラインサービスで、いま面倒なことになっている。エコーにはいろんな人がログインしていろんなことを話す。「なんでだれも教えてくれなかったの、もうこんなに夜遅い。何時間になるか知らないけど、私はここでずっと読んだり書いたり。ホワイトハウスを舞台にした連続テレビドラマ『ウエスト・ウイング』を見逃しちゃったじゃない。お願い!おもしろいテレビドラマの時間に私がログインしていたら、ログアウトするように言って。」
 問題、その二。四二歳でシングル、そして、いつでも落ち着く用意があると広言しているにもかかわらず、結婚やらなにやらからは、十六歳のころと同じくらい遠い。一人なのに、ロマンスには、日々ほかのことに注いでいる努力の十分の一も費やしていない。一日に少なくとも八時間は働いている。せめてその半分でも使って、愛をさがしたらどう?私は臆病なのだ。いや、そうではなく、このままでいいと思っているからだ。友人のスティーブンに言わせると、ほんとうにその気になれば一年以内に結婚できるという。そんなわけない!男がいないんだから。これは私のせいじゃない。ぜったいに。ちがうな、男を寄せつけないんだ。知りあいのシングルの女たちがよく使う言い訳。これには秘かに自分を持ちあげて、なぐさめているふしがある。こんなに頑固で強い女でなければ、なにもかもうまくいくのにと。たしかに。クレージーにならなければ、ほんとうの愛なんて見つからない。獄中結婚をする人だっているんだから。どこかいけないところがあるにちがいない。「どこかいけないところがあるなら、教えて」と、友人たちに言いつのる。わからない。なんでこんなことになっているのか、わからない。
 問題、その三。前にも言ったように、仕事であるエコーが、トラブっている。ほんとうはどうでもいいんだけれど。ニュー・メディアにはもううんざりだ。テレビを見ているほうがずっと、ずっとましだ。撤退の潮時。でも、いま使っているこのラップトップの支払をどうする?はじめての本は売れなかった。私の小説などだれも望んでいない。一人でなにをすればいいのかわからない。人生なにひとつ、落ち着いていない。ああ、それにそれに、糖尿病の猫も二匹いる。ヴィーツとビーマーズ。この猫たちに十二時間おきにインシュリンを注射しなければならない。それだけじゃない。ビーマーズは腎臓も悪くて、一日おきに点滴もしなくてはいけないし、おまけに綴りも発音もできない胃の病気だってある。初めて会った人たちに、この猫たちのことを話すと、「眠らせたら」と言う。人はね。でも、かがんで猫たちの頭をかぐと、地面や木々や葉っぱのかおりがする――荒涼とした感じとは正反対の豊かで潤いのある、永遠のかおりが。そうはいっても、たぶんささやかななぐさめだろうが、すべてを物語るとても大事なことだ。
 最後に、問題、その四。死のことを考えすぎる。死にかんする本ならなんでも買いこみ、死にかんする映画ならなんでも見に行く。パーティ好きの若いころのように、クラブからクラブへとはしごする代わりに、ひまさえあれば、忘れられた地下室や屋根裏の段ボール箱をあさり、忘れられた墓地のツタやイバラをかきわけている。私は忘れられた者たちを呼び覚ましたい。こうした忘れられた者たちの歴史を掘り起こすことができれば、勝ちだ。とにかく、そんな気がする。
 これは中年の危機、というよりむしろ、中年の危機の先取りの話だ。私はいつも焦ってものごとに飛びつく。なにか悪いことが起こるのなら、早く起こって、さっさと過ぎてほしい。その間の経験を記していくのは、書くことで中年の危機の中身を知り、中身がわかれば先手を打てるような気がするから。中年にかんする本は、中身のなさそうなものは別だが、できるかぎり読んできた。人間は成人してからも段階を経て成長していくものだという考えに基づくゲイル・シーヒーの本を読むと、だれかをなぐりたくなる。たしかに彼女の本を読んだのははじめてだが、『パッセージ』という本の考えには心がざわつく。人生は基本的にしくじりの連続だと私は考えている。これは、「人生はしくじりの連続よ、本質的に」と言う友人リズ・マーゴシーズから失敬している。(だれの言葉か、しかるべくクレジットをだすべきだ。)歳をとるというのはとてもすばらしい、ことではない。なにを勘違いしてるの?ローレン・バコールと、彼女だけじゃないけれど、しわができるのは自然なことだからいいじゃない、というあの手の態度は大きらい。ローレン、歳をとってどうなる? 死ぬのよ、おあいにくさま。もしゲイル・シーヒーが本のタイトルを『しくじりのパッセージ、でもこれからどうする?』にしていたら、私の心をとらえたのに。
 二か月前、「希望」という名の集会に行って聞いた最大の希望は、「人生は厳しい、そのあいまあいまに束の間の輝きがあるだけだ」。だれが言ったのか思い出せないから、しかるべくクレジットはだせない。ただそれを、成長の道を踏み外したら、「なら眠らせたら」式の人たちの頭上にかざすだけだ。(なにが「成長の道を踏み外す」ことなのか正確にはわからないが。)束の間の輝き。それで十分だ。
 男たちがくり返し訪れる中年の危機にいかに反応するかは、みんな本で読んで知っている。はい、はい。じゃあ、女たちは?この本でお見せしましょう。私はありとあらゆる方法で反応しはじめた。苦しむさまをお楽しみあれ。自分の人生のさまざまなチャンネルに一渡り合わせてみて、合わせる回数の多いチャンネルに戻ってきてしまうのは、そのチャンネルでたくさんのことが起こるから、あるいはそのチャンネルへのこだわりが強いから、あるいは同じ過ちをどうしてもくり返してしまうから。ミュージシャンと寝てはいけない、ミュージシャンと寝てはいけない――新しいルールだが、チャンスがあれば二回目でまた無視してしまうだろう。ただしそのチャンスは、かつてのように、二〇代のころの毎週末の輝きのようにはやって来ない。どんなふうにやってくると思う?事態をますます悪くするようにだ。
 なにをしていいのかわからない。すべてを投げだして放浪の旅にでたい。そうすればなにもかもが永遠につづくと、もっと楽に思いこめる。私はただ猫たちが死ぬのを待っているだけだ。そしたら、街をでよう。でも、街をでることが自由になることなのだだろうか?それとも隠れることなのだろうか?まじめにいこう。それは言い訳というものだ。猫のせいにして、猫が死ぬまで、自分の人生の責任を免れるようなものだ。猫たちにはいつまでも生きていてもらわないと。
 これはむずかしい。歳をとるのもむずかしい。おまけに私は一人ときている。それに病気の猫たちもいる。こわい。でも、いつも、というわけではない。