はじめに
  歌謡曲とは、おそらく、戦後の日本における最強の思想である。というのも、言語 に関わるどんな文化を考えてみても、歌謡曲ほど広く深い浸透力をもつものはないか らだ。小説は、ベストセラーになっても、読まない人は読まない。映画や演劇は、大ヒットしても、観ない人は観ない。いわゆるJーPOPは、基本的に若者向けの音楽であるし、あまりに拡散的で、誰もが知っている歌、というのは生まれにくい。しかし、歌謡曲は、それなりに限られた数のヒット曲が、年齢や階級をとわず、広く国民に共有されるしくみになっていた。それは、良くも悪くも受け手を選ばない。聴く気がなくても聴こえてくる。それらの歌は、日めくりカレンダーの格言ではないので、人は、その意味内容の是非をいちいち立ち止まって反芻しない。しかし、ふと気がついてみるといつのまにか、メロディーとともに言葉が脳裏に焼き付いている。
  こうしてサブリミナルに蓄積される言葉というのは、あなどれない。とりわけ若い頭脳にインプットされる言語情報というのは、人間の価値観に大きな影響を与えるからだ。でなければ、学校の教科書の検閲が政治的論争になったりはしない。しかし、問題は、だれも歌謡曲を「教育」とは考えていないところである。これが映画やテレビドラマの場合、あからさまな暴力シーンや性描写について、青少年への「悪影響」が議論されるし、『母をたずねて三千里』のごとく、文化庁から表賞される作品もある。一方、映像メディアのようには生々しくない流行歌の場合、その潜在力が目に見えては問題化しない。とはいえ、学校教育の場で歌い継がれる「御墨付き」の楽曲があることを思えば、歌というジャンルが「教育的」効果を持つことは明らかである。が、文部省唱歌は、歌謡曲に勝てない。文部科学省唱歌では、ますます勝てそうにない。日常を満たして反復する流行歌の浸透力は、美醜や「道徳」をこえ、どうにもとまらないのだ。
  もちろん、だからと言って、歌謡曲を検閲すべきだ、などという暴論を唱えるつもりはまったくないけれども、有力に政治的な言語文化としての流行歌は、もっと議論や考察の対象となってしかるべきであろう。どうにもとまらないものは、どう受けとめるかを考えるしかない。この点、映画や演劇は、「真剣な」批評の機会や制度もそれなりに整っているのだが、日本人にとってもっと身近な歌謡曲は、おそらくは身近すぎて、まだ「娯楽」だとしか思われていない。ので、歌の議論は、業界的なファッション批評としては盛りあがっても、いまだ文芸批評や社会評論の一領域として成熟していない。しかし、音楽は理屈じゃない、とか、歌はサウンドのノリがすべてだ、という一見スマートな感覚主義のもとで、何気なく聴こえるラブソングが、いかに恐ろしい洗脳や、いかに勇気ある反逆を行っているのか、そのありさまを無意識のままに見過ごしてはなるまい。なるほど、いわゆるメッセージソングは、誰もが「政治的」だと考えるが、本当の政治学は、政治性をあからさまにしない歌においてこそ、したたかなかたちで進行するものだ。
  さて、本書の三大キーワードは、副題も含めたタイトルに示した通り、「歌謡曲」、「七〇年代」、そして「ジェンダー」である。さしあたり、「ジェンダー」は「男女観」と言い換えてもよい。つまり、生物としての性別ではなく、社会的に決められる男と女のイメージや役割のことである。この概念自体が確立されたのは、八○年代だが、それ以前から歌謡曲は、「男らしさ」や「女らしさ」の問題に意識的だった。よく、歌謡曲は、恋愛がメインテーマだと受け取られ、いわゆるラブソングと同一視される。しかし、それは、少しだけ視点を変えるなら、ジェンダー・ソングだと言うこともできるだろう。男と女が何らかの駆け引きを行い、互いの位置関係をはかりあうのが歌謡曲/ラブソングの力学であるからだ。そこでは、伝統的な男女観が肯定されることもあるし、それに代わる新しい価値観が提示されることもある。そう考えるとき、「七〇年代」という季節が重要なキーワードとして問題に絡みあってくる。
  まず、日本の大衆音楽史における一九七○年代というのが、「状況的にも音楽的にも変化を遂げた時期として非常に興味深い」ことは疑いを入れない(1)。いわゆる歌謡曲が七〇年代にこそ乱れ咲いたのは、歴史的な事実であると言ってよい。しかし、ここでもうひとつの歴史として思い出すべきは、七○年代がウーマン・リブの時代でもあったことだ。この音楽史と女性史の変化の同時進行は、単なる偶然だったのか?
  そもそも、七〇年代リブの輪郭は、あまりはっきりと把握されていない。このことは、田中美津らによる初期の女性運動が、言語的ディスコースとして公的な刻印を残していない、という点に一因がある。まだ制度や研究組織の後押しがなかったそのような運動の言説は、「ジャーナリズムに登場することはあっても多くは嘲笑の対象としてであり、これらの運動体の主張を収録したものは非常に少ない」(2)。しかしながら、時代の空気に敏感に反応する流行歌というテクストには、当時のジェンダーをめぐる集団的(無)意識の変動が直接・間接に刻まれている。そのありさまを探ることは、昭和歌謡史の重要な転換期に生まれた楽曲の深層を読み解く補助線を提供すると同時に、大衆文化の側から七○年代フェミニズムの輪郭そのものを書き換える、政治的な時代の読み直しともなりうるだろう。ある意味、男女の姿を徹底的に描き出す歌謡曲ほど、日本のジェンダー研究にとって切実な鉱脈となりうる場所はほかにない。
  ただし、ここで誤解してはならないのが、歌と時代の関係である。必ずしも、「現実」としての時代が先にあり、それを歌の方が追いかけて「表現」するわけではない。思想としての歌謡曲は、もっとダイナミックな言語文化であり、時代を「映す」のみならず、「移す」政治的な力をも秘めている。つまり、「歌は世につれ、世は歌につれ」と言うが、肝心なのは、「世は歌につれ」の方である。これまで、小説が世界を変えた試しはほとんどないが、どうにもとまらない歌謡曲は、「世」を(そうとは知らぬ間に)変えることもできてしまう。反動的であれ、革命的であれ、歌謡曲はどこまでも詩(ルビ:うた)でありながら、限りなく政治学に接近する。七〇年代は、女性と歌謡曲の解放(ルビ:リブ)に揺れ動いた季節である。そしてもちろん、女性の意識改革は、男性の側にも新しい問題意識をもたらした。
  この文脈で興味深いのは、『まだ「フェミニズム」がなかったころ――1970年代、女を生きる』(一九九四)の著者、加納実紀代のコメントである。彼女は、そのあとがきにおいて、七〇年代歌謡曲の受容傾向にふれ、「結婚しようよ」(七二)や「神 c川」(七三)が懐古される状況に対して異議を唱えている。つまり、「七〇年代は、男たちの『ぼくの歌』よりも、女たちの『わたしたちの歌』によって記憶され、いまに伝えられるべきだと思う」との見解である。ここで、加納が強調する「わたしたちの歌」とは、比喩的な「歌」であり、女性の新しい声が響きあった時代の政治的なムーブメントを指している。が、本書はいわば、それを文字通りに受けとめてみたい。すなわち、七〇年代女性歌手の歌い声に込められたメッセージを改めて掘り起こすとともに、一枚岩ではありえなかった当時の男性の歌についても具体的な掘り下げを試みようと思う。なるほど、「フェミニズムにとってだけでなく、七〇年代が提起した問題は、今なお、というよりも今やますます問いとして意味を持っている」だろう(3)。九〇年代半ば、加納がそのように言った言葉は、二一世紀においても変わらぬ重みを持つに違いない。いま、七〇年代は、すでにもう古い。しかし、古いがゆえに、ふたたび新しい。唐突ながら、与謝野晶子がいみじくも歌ったように、遠ざかる記憶こそが最新のリアリティを帯びるのだ。
  きのふをば千とせの前の世とも思ひ 御手なほ肩に有りとも思ふ
  以下、議論の見晴らしを良くするため、本書の大まかな流れをまとめておく。第一部「愛しさのしくみ」では、七○年代を見晴らすフレームを提供する意味で、いわゆる愛の情緒が政治的に「しくまれる」メカニズムを考える。誰か/何かを愛しいと思う気持ちは、それが恋人に対してであれ、家族に対してであれ、国家に対してであれ、感覚的には、自然にあふれ出る感情として自覚される。しかし、我々が、自分の内側から沸き起こってくると信じている思いは、実のところ、外側からの人工的な刷り込みによって生じているのかもしれないのだ。そのことを、恋愛・結婚(一章)、母の愛(二章)、そして愛国心(三章)にまつわる歌を取りあげながら検討する。
  第二部「越境する性」では、第一部で素描した伝統的な価値観の枠組みに対し、より実験的ないしは急進的な歌謡曲の系譜をあとづける。つまり、いわゆる男らしい男とか、女らしい女、という素朴なカテゴリーの揺らいだ七○年代像を明らかにしたい。具体的には、女言葉を用いる男性歌手の演劇的可能性(四章)、成人男性という規範から逸脱する「ソフトな」男性の新しさ(五章)、そして「どうにもとまらない」性的攪乱を生きる「ハードな」女性像(六章)に関 オてくわしく考える。
  第三部「欲望の時空」では、それまでの議論をさらに応用するかたちで、一見したところ男女や性の問題とは直接結びつかないモチーフに注目する。文字(七章)、都市(八章)、時間(九章)をめぐる歌たちが、実はジェンダー化された欲望とからみあっていることを検証し、本書の社会的な射程をより審美的な広がりへと開け放ちたい。性役割の自由が夢見られた時代の中で、歌謡曲という大衆芸術ジャンルは、今日の我々にいかなる遺産を残したのか。その史的/詩的な位置づけを最終的に確認することができれば、と思う。〈注〉(1)矢倉邦晃「七○年代歌謡音楽的ガイドマップ――フリー作家の時代としての」『ユリイカ』(青土社、一九九九年三月号)一三○頁。(2)江原由美子編『フェミニズム論争――七○年代から九○年代へ』(勁草書房、一九九○年)七頁。(3)加納実紀代『まだ「フェミニズム」がなかったころ――1970年代、女を生きる』(インパクト出版会、一九九四年)二八八頁。