町をスケッチした日々

二人の出会い

 僕が映画の世界に入ったのは、深いきっかけがあったわけではないんです。
 戦時中、僕は横須賀の特攻隊の基地にいました。二人乗りの特殊潜航艇で、あと三月もすれば敵につっこむ予定だったんです。「お前ら二人で何千人の敵をやっつけられるぞ」と上から言われ、そうなのかなって思いこんでいた(人間って、一度決めたら、死ぬことなんてたいしたことじゃないんですよね。そういう「感じ」に引き込まれてしまうんだ)、そんな毎日でね。そんななかなのに、僕は戦争ってのは滅多にないんだから、いろんなものを捨てないでもっていました。終戦のビラだとか、会食券だとか。
 ところが、物資不足で潜水艦が完成しないうちに終戦。僕は終戦日直後の八月二二日には横須賀から戻ってきました。特攻隊は、気が荒くて暴れられると困るっていうんで、一番早く戦地から帰されるんです。そのとき現地からいろんなものを持ち帰ってきました。田舎から出てきた仲間は、故郷からお米をもってこれないから酒なんかをもって基地にきていたんですが、(終戦を迎えて生き残った者が)みんなそういう物資を持ち帰ってきたんです。あの時は抱えきれないくらいの荷物をもって帰ってた。
 その後、鹿島組(現鹿島建設株式会社)に入ったら、一転して退屈な日々が待ってました。そんな時、どうしても映画をやりたいっていう友達と一緒に、東宝の事務をしている兄貴のところへ行ったんです。そこで美術をのぞいたら、「お前ら、明日からこい」っていきなりいわれてね。それで、友達と東宝に入りました。昭和二一年(一九四六)六月のことでした。
 僕はもともともと商業デザイナー志望で、兵隊に行く前に図案科のあった東京高等工芸学校(現千葉大学)に行っていましたから、図案の技術が生かせるならいいかっていう軽い気持ちでしたね。

 そして、東宝に入社して、忍に会ったんです。彼女は一年先輩でした。現場ではこき使われました。僕が一本立ちする昭和二九年までは、台本をもらったらすぐ下絵を描いて彼女に見てもらう、その連続で本当に忙しかった。
 忍は、日本ではじめての女性の美術担当でした。女子美術大学時代の友達が美術デザイナーの松山崇さんを知っていた縁で、映画の現場に入ったんです。はじめは東宝の教育映画を作っていて、市川崑監督と一緒に仕事をして、戦時中は兵隊を訓練するための映画を作り、その後一般映画に転向しました。
 忍は、図面をきちっと作るので、デザイナーの先輩から引っ張りだこ。助手にちゃんと図面を引いてもらえれば、自分は現場に出なくてもいいから、下手くそな手合いほど彼女を使いたがった。美術監督になっても、職人としての腕がよすぎて便利に使われてしまったきらいがあるんじゃないかな。忍は台本をもらったら資料をバンバン買って勉強するタイプだったから、僕も負けてられないっていうんで、頑張りました。

 それにしても、あの頃は本当に忙しかった。一緒に美術をやった亀井文夫・山本薩夫監督の『戦争と平和』(一九四七)では、忙しくて家に帰れなくて、会社の机の上で寝ながら何日も仕事をしました。黒澤監督の『野良犬』(一九四九)でも、めいっぱい働きました。あれは三カ所の撮影所を使った大がかりな撮影でしたから、オープンセットもいれて絵が三十枚以上必要でした。丸太の上に座ってふたりでぼやいていたんですよ。思えば、恋愛とぼやきと一緒でしたね。
 つきあい始めた当時、会社の人から睨まれました。僕が彼女より年下だっていうのも気に食わなかったんでしょう。彼女はキレイだったし、彼女を好きだという人が他にもいた。僕らが結婚したのは、昭和二六年か二七年のことでした。
 当時は会社からおよびがかかった時以外は自宅待機。仕事が入ると、旅行先にまで電報が来て、東京に戻されました。休みがあんまりなかったな。今はコピーがあるけれど、このころは自分でプランを描いたら、現場スタッフのために最低五枚は同じものを作らなくちゃいけなかった。だから、忙しかったんですよ。

 スケッチをし続けた理由

 仕事のためにスケッチを描いたのは、忍と一緒に美術をやった山本嘉次郎監督の『新馬鹿時代』(一九四七)が初めてだったかな。その翌年の『酔いどれ天使』には、彼女と一緒にスケッチをするようになりました。最初、僕たちは松山さんの助手につきました。松山さんの助手として関わったのは黒澤映画では『酔いどれ天使』『野良犬』『七人の侍』『生きる』の四本。黒澤映画以外では成瀬巳喜男監督の『夫婦』(一九五三)があります。
 一九五〇年代なかばのクロ(黒澤明)さんの映画でぼくがやったのは、『生き物の記録』(一九五五)、『蜘蛛巣城』(一九五七)。『生き物の記録』は美術デザイナーの松山崇(一九〇八−)さんが日活に行ってしまったので、途中からやりました。

 当時は助手が台本を読んで、それに見合った建物を日本中を歩き回って探して、スケッチした。それを最終的にデザイナーが選択するシステムをとってました。助手のころは、忍と一緒に仕事で使えそうなものも、そうでないものも、とにかくたくさんスケッチを描きましたね。いつどんなものでもセットで作れるようにしたいと思ったし、変わっていく街を記録しておきたいという気持ちもあったからです。
 たくさんスケッチを描いたもう一つの動機は、映画界の徒弟制度への反発です。僕は映画美術を芸術的にしたかった。ところが、その頃の美術デザイナーって、えばっててさ。「俺たちは十年ぐらいデザイナーをやっているんだ。お前らとは違う」と偉そうなことをいう。大まかな絵を描いて寸法を入れているだけの人が自慢話ばかりでね。そんな人たちから新しいものは出てきませんよ。彼らと同じようにやってても意味がないと思って、若手同士で勉強しようと仕事と関係のないスケッチも自発的に描きはじめました。さすがに一年に七本も美術を手がけた娯楽映画全盛の一九五〇年代以降は、映画の取材でスケッチすることが多くなりましたが、それまではいろんなものを描きました。
 スケッチの現場では、時間があればそこで色をつけて、時間がなければものの名前だけを書いておく。家に帰ってから色つけすることもあります。もっていくのは、だいたい鉛筆。時間があるときはペンや、万年筆、インク壺をもっていく。それに画板。学校で油絵をやっていたから、こういうものはすでにもってたんだ。下書きを鉛筆でして、色はその上から色鉛筆でつけることもありました。
 写真は、ロケハンでスケッチしている暇がないときに撮って、それをもとに後でスケッチを起こしました。そういえば、物資に困った戦後でも、写真フィルムや現像代といった取材に必要なものは映画会社が支給してくれましたね。
 今の美術デザイナーはカラー写真を使ってロケハンしているみたいだけど、僕らの時代は感度が悪いモノクロフィルムしかなかったから、絵に描いていろいろとそこにメモを書き込んでおく方が、あとあと便利だったんです。鰻屋に貼ってある値段表の紙質とか、色とか。そういう情報をうんと細かく描けば、記録としては写真より断然いい。
 生活で当たり前に使うものこそ消えていくんです。当たり前のものは誰も残そうとしない。だから、時間がたてばなくなっていくだろうなと思ったものや風景は、スケッチに残しておかなくちゃと思いました。