あとがき

 この本は未完成な本である。
 一九七九年、私は二十一歳だった。その頃、私は、時代が大きく変わろうとしていることを、つまり新しい時代に突入しつつあることを、体感していた。
 体感していたものの、私は、それを上手く言語化出来ないでいた(私は表現者を少しも目指していなかったけれど、自分のためだけに、一種の備忘録として、それを言語化しようと考えていたのである)。
 言語化する代わりに、私は、そのことを、変わりつつある時代の空気を、出来るだけ正確に記憶しておこうと試みた。
 過去から未来へと続く時間の進み具合を意識することが歴史だとしたら、その頃から、歴史は、止まって行こうとするように思えた(「止まった」わけではなく、「止まって行こうと」していただけである。つまり、止まって行こうとするように思えながら、時間は、以前と同じペースで、確実にきざみ込まれて行く。だからこそ、逆に、手に負えない感じがした)。そのことを、私は、強く自覚していた。
 しかもその頃から、時代がどんどん便利になって行き、経験の一回性が失われつつあった。
 そういう時代に対する、当時の私なりの認識を表現したのが、一九七九年頃から漠然とした構想を得ていた一九八二年度の早稲田大学第一文学部人文専攻の卒業論文「福田恆在論」である。長い文章を書いたことがなかったので、五十枚ほどのこの論文を、私は、へとへとになりながら書いた。つたないながら、思いを書きつくしたつもりだ。
 今回、「幻の一九七九年論」たるこの評論集を構成するに当たって、あえて、その若書きの評論を、評論集の折り返し部分に置いてみた。単に現在から一九七九年を振り返るのではなく、一九七九年から未来への視点も交差させることで、一つの遠近感が得られるのではないかと思って。
 しかし、ゲラ刷りで通して読んでみると、この二十数年間で私が、その世界観(などという大げさなものではないが)を、殆ど変化させていないことを自覚した。ただし、もし変わっているところがあるとすれば、その変化は、今の私にとってとても重要なのだが。
 改めて言おう。この本は未完成な本である。そして、「幻の一九七九年論」たるこの本を完成させるのは、この本を通読し、何かの考えのきっかけをつかんでくれた(はずの)、読者ひとりひとりのその読みの力にゆだねられている。
 今回もまた晶文社の中川六平さんのお世話になった。どうもありがとう。
 それから装丁を菊地信義さんにお願いした(たぶん晶文社から菊地さん装丁の本が出るのは初めてだと思う)。菊地さんこそはまさに一九七九年のパラダイム・チェンジの中で、時代に対して最も鋭い批評性を持った装丁家だった。
 その菊地さんが、この評論集をどのような意匠でかざってくれるのだろうか。私は今から少し興奮している。

 二〇〇二年六月二十八日
 坪内祐三