たましいの場所

 生まれて初めて、被告にされてしまった。一番上の兄から、母の遺言書が無効であるとして、訴えられた。実は十三年前、父が亡くなった時も、母と長男との間に土地の権利関係のことで争いが起こり、しかたなく、母は長男を訴え、最高裁まで行った経緯がある。そして、今度こそ、もう、争いがないようにと、母は公証役場で遺言公正証書を作り、子どもたちに手紙を残し、この世を去って行ったのだが、それに不満の長男が、その遺言書は、母の真意ではなく、作らされたのではないかという理由で、次男から末の僕まで兄弟七人を訴えたのだ。まったく、父が生きていたら、どう思うだろう。怒り出して、ひっくり返ってしまうだろうなと思う。もしも、母が生きていたら、なんと嘆くことだろう。ため息をつき、さぞかし、悲しむに違いない。
 たしかに、父の死後、いろいろあって、長男とみんながうまく行かなくなってしまったのだが、母からの手紙を読めば、仮に不満があっても、もう争うのはよそうとか、しょうがないとか、我慢しようとか、普通だったら、仮に僕が長男だったら、そう思うけれど、よっぽどの食い違い、正当性、執着、憎しみがあるのだろう。
 よその家の財産争いなど、人はどっちもどっちと思うはずで、そう思われてもしかたないが、いずれにしろ、みっともない話である。しかし、喧嘩をするとか、憎しみ合うというのではなく、解釈の問題だから、もう事務的に、弁護士を通して、法で決着をつけましょうということだから、これでいいのかも知れない。

 父は晩年、よく僕がやっていた本屋に、ふらっと本を買いに来てくれた。うまくいっているかどうか、心配で来てくれたのだろう。倉庫から住まいの二階に上がる階段にまで、本を積み上げているのを見て、「危ないよ」だとか、「人を使って、もっと、店を大きくしなきゃ」とか、「なんなら、お金、貸してあげるよ」とか、「利益が出ているなら上出来だよ。繊維関係は、どこも赤字なんだから」とか、そのころ、会社を合併し、数年後、分かれたりした関係で、「長男と次男の仲が悪くて困っちゃうよ」などとこぼしたりしていた。
 口うるさい父を、僕は嫌ったこともあったが、二十歳を過ぎたあたりから、いい感じになっていった。父に欠点があるとすれば、それは、僕の欠点でもあり、欠点は、長所でもあり得るんだということが、だんだんわかって来たからかも知れない。
 父は、貧しい家に生まれ、苦労して築き上げたタイプであった。いつも質素で、いっさい贅沢はせず、その性格を僕もちょっと受け継いだところがあり、こつこつと、地道に本屋をやっていたのである。
開業する時、銀行以外に、父からもお金を借りたのだが、しっかり返済させられたし、十数年後、母名義の土地を購入する時も、多少相場より安くはしてもらったが、一度に支払えなかった不足分に対する代金の利息を、全額返済するまで、ずうっと父に取られていた。他人からお金を借りたら当然利息は発生するんだよと教えたかったのだろう、父は、ケチというのではないけれど、子どもに対しても、決して、甘くはなかった。

 父が亡くなったのは、ちょうど、昭和天皇が亡くなられた年で、それまで、その残金を「まあ、ゆっくりでいいよ」ぐらいの雰囲気だったのが、ある時、顔を合わせたら急に怒り出したので、僕も頭に来て、無理やりお金をかき集め、すぐに返済した矢先だった。その時、すでに父は、手遅れの胃がんに冒されていたのだ。
 見舞いに行った時、病院の廊下を歩いていた寝巻姿の父から、「義夫、変わってくれよ」と言われ、その冗談が冗談に思えなくてドキッとしたことがある。
「頑固じゃないから、がんにならない」なんてよく言ってたし、お酒もたばこもやらないから、自分が胃がんになるとは思ってもいなくて、母や医者の言う胃潰瘍という病名を信じていたらしい。しかし、病状は悪化していくばかりで、最期はもう助からない命だと覚悟したと思うのだが、さぞかし、悔しい思いをしたことだろう。どんなに、死の恐怖を味わったことだろう。生きることが好きな人だったからだ。まだまだ、やりたいことがたくさんあったからだ。



 喋るのが、もうつらくなってきた頃、父は病床で僕に「義夫には、○○のビルをあげるから」と言った。僕はびっくりした。返事が出来なかった。ただただうなづいていた。「六、七階は、長男のものだけど、そこの一階で、本屋をやればいい。それを静代のお父さんにも伝えて安心させて上げなさい」とも言った。ちょうど、義父も、同じように入院していたからだ。
 僕は正直、嬉しかった。本当なのかどうか、確認したかった。長男にその話をすると、「よっちゃん、それは、もらいすぎだよ。お父さんの希望どおりにすると、お嫁に行った女の子たちが少ないって怒っちゃうだろうし、第一、半分相続税を免除されるお母さんの分がないんだよ」と言われた。嫌な予感がした。
 父は自分の財産管理を長男に任せていたのだが、正確には把握出来ていなかったのかも知れない。もともと、古い人間だから、長男に多くという考えはあったかも知れないが、それが、あまりにも行き過ぎているのではないかということが、のちのちわかり、揉め事の原因にもなったのである。いや、そうではなく、長男の言葉を、母も僕たちも信じられなくなってしまったのである。
 母の住まいからは、盗聴器まで発見された。一人残された母の面倒を、誰が看るのかという問題も大きかった。母は頭はしっかりしていたが、心臓と足腰が弱っていた。何だか、みんながお金のことを口にするようになった。母も、今度は、自分がしっかりしなきゃ、だまされないぞという気持ちになってしまったのだろう。何でも、損か得かで判断するようになってしまった気がする。もともと、そういう血が全員に流れているのかも知れない。
 最初の頃、母と一緒に住もうかなと真剣に考えたこともあったが、僕の性格ゆえ、むずかしいだろうと思いとどまっていた。二つ上の兄夫婦が、四年ほど一緒に暮らしたが、別な理由もあって出て行った。孫夫婦が住んだこともあったが、これも、長くは続かなかった。
 その後、毎日、交代で、母のところへ通うことが長く続いたが、できれば、自分以外の誰かが、母と一緒に住んでくれることを、もしくは、多めに通ってくれることをそれぞれが望んでいた。
 よほど、たまっているものがあったのだろう。本当の気持ちを言えない、気持ち悪さがあったのだろう。ある時、僕は母に「お金で、愛情は買えないよ」と、とんでもないことを口走ってしまった。その時の母の顔が、未だに忘れられない。悲しみと怒りで歪んでいた。これで、もう、母との仲は、終わりだと思った。縁を切られても、しかたがないと思った。

 お金とゴミは貯めれば貯めるほど汚くなる、と二歳上の兄が言っていたが、そうかも知れない。お金持ちほど、ケチでせこい。お金を持っていない人ほど、お金にルーズで、おおまかで、人におごったりする。

 父の死後、父に世話になったという人が、そうしないと自分の気持ちがすまないという理由から、十三年間、毎月、母のところに、お線香を上げるつもりで、挨拶に来ていた。
 相続税を払うために、父から相続した土地を売らざるをえなかった姉が、「前のご主人は、仏様みたいだったのに、今度の方は鬼のようだ」って言われてしまったとこぼしていた。一番、お金にこだわっていそうな父が、決して、損得だけでものごとを判断していなかったことがよくわかる。

 母とは、あれから、気まずさを持ったままになってしまったが、僕があんなひどいことを言っても、母は、他の兄弟と同じように、僕のことを、みなに言わせれば、少し甘いくらい、考えてくれた。

 父がもし、今生きていたら、どう思うだろう。僕になんて語るだろう。母は、今、何を思っているだろうか。僕は、なぜ、こんな話を書いているのだろう。

 言葉は、喋れる人のためにあるのではなく、喋れない人のためにあるのではないだろうか。自分の都合のいいように、「自分の意見」を言うためにあるのではなく、「正しいこと」「本当のこと」を探すために、言葉はあるのではないだろうか。

 以前、僕は、目に見えないものは、まったく、信じられなかったのだが、考えてみれば、自分の心が見えないのだから、見えなくとも存在するものがあるということが、父と母の死をきっかけに、ようやく、気づいた。
 父の魂と母の魂は、どこに存在しているのだろうか。人それぞれ、思う場所は違うだろうけれど、父の死後、母が飼っていた柴犬、今は僕と共に暮らしているチャコの体の中だろうか。そう、勝手に思っている、僕の心の中だろうか。