ラジオで聞いた話。 「子どもの躾って、外でちゃんとごはんを食べられるようにすることじゃないかなあ」
 と話す音楽家の声が、耳にとまった。 「ごはんを食べられる」を、経済的にひとり立ちする意味にとったが、それは私の早のみこみで、この場合の「外でごはん」は、外食のこと、ひとのお宅でごはんをご馳走になるときのことだった。
 なるほどなあ、と感心する。そして、感心している場合ではない、躾以前に、私自身は、果たして外でちゃんとごはんが食べられるひとになっているだろうか、と思った。なんだか、心もとないなあ。 「外で食べる」を意識しはじめたら、食べる場面が前にもまして気になるようになった。そんな折りも折り、小学校の教師をしている友人から、こんな話を聞いてしまった。

「いまの子どもと私たちの子ども時代と、いちばんちがうところって、どこだと思う?」
 はて、どこだろうか。
「給食の時間」
 と、彼女は言った。
「好き嫌いとか?」
「そうね、それもあるけど、好き嫌いなんか、私たちの時代にもあったじゃない。友だちに嫌いなもの食べてもらったりしなかった?」
「したした。食べてもらったり、食べてあげたり」
「そういうんじゃなくて、給食を食べているのに立ち歩いたり、とつぜん、食べるのをやめて遊びはじめたり。低学年だけじゃない、六年生のなかにもそういう子どもがいてね。とにかく、じっと腰かけて、ごはんを食べつづけられないのよ」
「え」
「たぶん、家での食事もそうなんじゃないかな。『いただきます』と『ごちそうさま』の間が、ぐしゃぐしゃなんじゃないかしら。子どもだけならまだしも、大人も」
「……」
 そうだ。「外でのごはん」は、家の「ごはん」の積み重ねの上にあるのだった。作法より何より「食べる」ことがどのくらいありがたくて、大切なことか、そこを考えるのが先かもしれない。

 久しぶりに友だちと町に出かけ、昼ごはんを食べた。
 イタリアの家庭料理を食べさせる、小さなレストランの客となった。私たちふたり、向かい合ってすわり、メニューとにらめっこをはじめる。お互いに主婦だから、食べたいものを探すときの気持ちには、家のごはんのヒントになるような何か、または自分ではつくれない何かなんていう要素がふくまれる。
「私はアンチョビのパスタ」
「この野菜たくさんの鮭のパスタって何だろう」
 メニューのなかをそぞろ歩いていたら、隣りの卓に親子らしき三人がやってきた。お父さん、お母さん、それに小学校三年か四年くらいの女の子。
 この店はメニューでパスタを選び、あとは肉料理、魚料理、サラダ、パンなど、店の中央の大きな卓に歩いていって、自分でとることになっている。お皿一枚分一回限りという約束だが、手わたされた皿が大ぶりなのがうれしかった。あれこれ欲ばって、食べてみたいものを少しずつとり、卓にもどると、隣りから細い煙が立ち上ぼり、かすかにこちらにたなびいている。そういえば、隣りのお母さん、くわえ煙草で店に入ってきたっけ。
 そこへ、サラダの皿を持ってもどったお父さん。大きなため息をひとつ落として、煙草の火をもみ消した。煙草の煙が消えるやいなや、お父さん、今度は小さく叫ぶのだ。
「そりゃ、いったい」
 ひと様のテーブルをじろじろ覗くわけにもいかないが、上等なブラウスを着こんだお嬢ちゃんが手にした皿が目に入ったときには、友だちも私も「ひっ」と声にならない声を上げてしまった。これほどたくさんの食べものを積み上げた皿は、見たことがない。それを左手に持ち、一〇枚は重なっているとおぼしきバゲットの薄切りを右手に持って立っている。これをこの子が全部お腹におさめ、その上たのんだパスタまでたいらげたら、それは昼のごはんではなくて、大食いコンテストだ。小学生はもちろん、大人もまず食べきれない。
 煙草のお母さんは「いやね、この子ったら」と笑った。
 お父さんは何も言わない。
 こんなに哀しい食卓ってあるだろうか。

 このひとたちには、店のひとの「がっかり」も、食べたくても満足に食べられない遠い国の子どもたちの見えない「がっかり」も、そこに隣り合わせた私たちの「がっかり」も、きっとわからないだろう。そして何より、食べることの意味を教えられずに育っていくこの女の子を思うと、「がっかり」を通り越して目の前が真っ暗になる。 「外でちゃんとごはん」の意味が身に沁みて、ひりひりする。口うるさく作法を言い立てるのではない方法でわかってもらうためには、ええと、ええと……。
 あれこれ考えて、ゆき着いた結論は、あっけないほどさっぱりとしたものだった。
 私がその大切さを噛みしめながらごはんをつくり、噛みしめながら食べること。 のか?
 そんな疑問が沸き起こってくるのを、どうしても抑えることができない。
 また、日本人と韓国人が睨み合うようにして向き合って立っているような現実がある限り、日本人になろうと、韓国人になろうと、立つ場所が変わるだけで、自分のような存在に居場所を与えないこの世界の枠組みは全く変わらないじゃないか、私はそもそもそういう現実、そういうふうに人間を分類する思考の枠組みの中に身を置きたくはないのだという思いも強くあったのです。
 なぜ私は私のままでは、私が生れ落ちた世界に受け入れられないのか?
 どうすれば、私はこの世界に自分の居場所を持つことができるか?
 学生の頃に抱いたこんな疑問が、現在の私の出発点です。その疑問が、在日韓国人という存在を生み出した日韓の近代史へと私を引き寄せ、私のような存在を拒否する「国家」や「民族」という枠組みが近代においていかにして形作られていったのかについての関心を呼び起こし、さらには、この百年間私たちを縛りつづけてきた「国家」「民族」という閉鎖的で排他的な枠組みを越える、外に向かって開かれた新たな枠組の模索へと私を突き動かしてきたのです。
 同じ血、同じ言語、同じ文化で結ばれた「国民」によって構成される「国家」という枠組み。国境線の内側は、“純粋さ”で満たされるべきという発想。人間の生きる世界において、民族の純粋な血、他の言語からの混じりものない純粋な国語、他者が持ち込む夾雑物を含まない純粋な文化というような言葉で語られる“純粋さ“とは、フィクションでしかありえないものです。ところが、そのフィクションに人はいとも簡単に取り込まれ、その物語を生きようとしてしまう。
 「純粋さ」とは、一見、美しいものでありますが、それは、美しい自分を囲い込み、異なるものを拒否する「排除」の発想を大前提とするものです。
 純粋!
 その美しい響きは、実は、在日韓国人のような存在のみならず、美しい「私」とは異なるすべての「あなた」を排除せよという囁きであること、そして、人は誰も、いつでも排除される「あなた」になりうる可能性をもっていること。そのことに気づいた時に初めて、私たちは、この百年ほどの間、私たちを囲い込んできた「物語」の縛りからみずからを解き放ち、他者へと、物語の外へと想像力を広げ、別の新しい開かれた「世界/物語」へと向かうための出発点に立つことができる。
 日本人やら韓国人やらわからない曖昧な存在としての在日韓国人ではなく、正しい韓国人になるために、韓国文化を身につけよという「民族」からの言葉を耳にし、それにどうしようもない違和感を覚えた20歳の頃から、私は文化というものについて考えつづけてきました。考え、そして語ることは、私にとっては「居場所のない自分」の居場所を創りだすための試みであり、生きるということであったのです。
 おそらく、人ならば誰しも、特に思春期の頃には、自分を取り巻く現実に対して何らかの違和感や、漠然とした「居場所のなさ」というものを感じることがある筈です。その思いをどう解決すべきかという「正しい答え」を、私は差し出すことはできない。でも、その思いがどこから生まれくるのかということは、自分の生きていた経験の範囲から語ることはできる。みずからを縛っているものがなんであるのかということへの、気づきのきっかけくらいは差し出すことができるかもしれない。
 気づきは、さらなる問いを生み出すものです。
 じゃあ、これから私はどんな世界でどう生きていくべきなのか?
 私がなすべきことは何なのか?
 という具合に。
 ただ、「純粋さ」がフィクションであるように、「唯一の正しい答え」などというものもこの世には存在しません。それを誰かから与えられるはずと信じている限りは、私たちは、また私ではない誰かが作り出した「物語/世界」の枠組みの中に取り込まれ、みずからの生と想像力を囲い込むことになる。同じことの繰り返しです。
 答えは、それぞれの人生を生きている私たち一人一人が、見つけていく、あるいは創り出していくしかない。そして、そのようにして生きていく姿勢を共有することによって、それぞれに異なる私たちは共感をもって出会い、言葉を交わし、互いに生きる力を送りあうことができるはずだと、私は信じてもいるのです。