■20歳の頃の自分自身を振り返る

 20歳の頃、私は二つの名前の間で揺れて、自分の居場所をどこにも見つけることができぬまま、とてつもない不安の中で生きていました。二つの名前というのは、私の戸籍上の本名である「カン・シンジャ」と、その日本語読みである「きょう・のぶこ」です。
 自分の居場所がないという思いは、一つには、大学という社会の一歩手前の場所で、日本社会の現実をよりリアルに感じるようになったことから、より強くなったものでもあります。
 日本社会の現実――。それは、日本で生まれ育ち、日本しか知らず、日本文化を身につけ、日本語を母語とし、日本式の通名を名乗り(在日韓国人の多くは植民地時代に強いられた日本名を、日本社会で生きていくうえでの摩擦を減らすために引き続き使いつづけてきました)、どこからどう見ても日本人にしか見えない存在であっても、国籍が韓国であるというただ一点のために、在日韓国人には就職先などないということです。
 今は在日韓国人にも日本企業の門戸は少しずつ開かれつつありますが、少なくとも私が学生だった20年前には、日本に永住している在日韓国人が日本企業に就職するなんていうことは、まず不可能だと思われていました。実際、私の周囲の在日韓国人の大人で、会社員をしている人を私は知らなかった。自営業の人々ばかりです。パチンコ屋、焼肉屋、小さな町工場、町金融…。
 サラリーマン的安定とは縁のない生活。個人の商才と、世の中の景気に左右され、浮き沈みの激しい生活。何歳になっても夢見る文学青年で、およそ商売には向かない人であった私の亡父などは、それでも生きていくためには何らかの商売をしなければならず、失敗を繰り返し、晩年はとうとう立ち直れぬまま、この世を去っていきました。
 リスクの多い人生。それは社会に居場所を与えられない者が背負わねばならない運命です。
 だから、在日韓国人の親たちは、医師、税理士、ピアノ教師といった種類の資格と技術で自立できる職業に子供たちを就かせることを願い、教育に非常に熱心になる。また、民族学校が日本政府より正規の学校としての認可を与えられず、それゆえ、そこを卒業したところで大学受験資格を得られないということもあって、子供を日本の学校に通わせることにもなります。ですから、日本で生まれ育ち、日本の教育を受けた多くの在日韓国人のメンタリティは日本人に限りなく近く、またその友人はほとんどが日本人ということになります。
 ところが、小・中・高・大学と同じように過ごしてきた友人たちは、そのままスムーズに就職活動に入り、社会へと出てゆく。その一方で在日韓国人である自分は、最初から就職の道が断たれている。当時は、「とりあえずフリーター」などという選択肢もありません。在日韓国人にとっての厳しい現実を前にした時の、「ああ、私は日本社会から拒否されている」という絶望にも近い思い。その気持ちのいくばくかは、就職活動に四苦八苦した経験のある方になら、おそらく理解してもらえることでしょう。
 では、日本社会に拒否されている在日韓国人という存在は、どこに生きる拠り所を求めればいいのか?
 就職という問題に限るなら、在日系の中小企業に入る、あるいは家が何らかの商売を営んでいる場合にはその家業を継ぐ、もしくは外国籍でも取得できる資格を取ったり、技術を身につけたりすることで自立の道を選ぶというような、選択の幅は日本人に比べれば格段に狭くはなるものの、解決の道がないことはない。
 問題は、日本社会に拒否されている、自分には居場所がないと痛切に感じつつも、それでも日本で生きていくしかない者にとっての、生きていくうえでの心の拠り所はどこにあるのかということです。
 その問いに直面した若い在日韓国人に差し出されてくる解決の方向性は、基本的には二つに一つ。日本人への完全なる同化か、韓国人としての民族意識の強化です。つまり、本名として日本名を選ぶか、あるいは韓国人としての本名である韓国名を選ぶか、ということです。そして、在日韓国人社会においては、在日韓国人として取るべき理想的な解決の方向性は、当然に後者。「確かな民族意識を支えに生きよ」、なのでした。
 そのためには、まずは韓国語を学ぶ。韓国文化を身につける。日本式の通名を捨て、本名を名乗る。そして、韓国人としての自我を確立する。在日韓国人の間では、それが在日韓国人の本来あるべき姿であるという暗黙の了解がありました。
 とはいえ、学生だった頃の私には、自分にとってはもはや外国語の一つにすぎない韓国語を学び、さらに韓国文化を学んで身につければ、正真正銘の韓国人に本当になれるとはとても思えなかった。それは英語を学び、アメリカ文化を身につければアメリカ人になれると言われているに等しいようにも響いていました。何より、日本人か、韓国人かという二者択一の発想に強い違和感を抱いていたのでした。
 素朴な感覚として、自分は日本人でもなければ、韓国人でもない。そういう境界線上の存在は、なぜ日本という国家の側からも、韓国の民族の側からも否定されねばならないのか?
 どうして日本人か韓国人かのどちらかになることを選択しなければならないのか?
 そんな疑問が沸き起こってくるのを、どうしても抑えることができない。
 また、日本人と韓国人が睨み合うようにして向き合って立っているような現実がある限り、日本人になろうと、韓国人になろうと、立つ場所が変わるだけで、自分のような存在に居場所を与えないこの世界の枠組みは全く変わらないじゃないか、私はそもそもそういう現実、そういうふうに人間を分類する思考の枠組みの中に身を置きたくはないのだという思いも強くあったのです。
 なぜ私は私のままでは、私が生れ落ちた世界に受け入れられないのか?
 どうすれば、私はこの世界に自分の居場所を持つことができるか?
 学生の頃に抱いたこんな疑問が、現在の私の出発点です。その疑問が、在日韓国人という存在を生み出した日韓の近代史へと私を引き寄せ、私のような存在を拒否する「国家」や「民族」という枠組みが近代においていかにして形作られていったのかについての関心を呼び起こし、さらには、この百年間私たちを縛りつづけてきた「国家」「民族」という閉鎖的で排他的な枠組みを越える、外に向かって開かれた新たな枠組の模索へと私を突き動かしてきたのです。
 同じ血、同じ言語、同じ文化で結ばれた「国民」によって構成される「国家」という枠組み。国境線の内側は、“純粋さ”で満たされるべきという発想。人間の生きる世界において、民族の純粋な血、他の言語からの混じりものない純粋な国語、他者が持ち込む夾雑物を含まない純粋な文化というような言葉で語られる“純粋さ“とは、フィクションでしかありえないものです。ところが、そのフィクションに人はいとも簡単に取り込まれ、その物語を生きようとしてしまう。
 「純粋さ」とは、一見、美しいものでありますが、それは、美しい自分を囲い込み、異なるものを拒否する「排除」の発想を大前提とするものです。
 純粋!
 その美しい響きは、実は、在日韓国人のような存在のみならず、美しい「私」とは異なるすべての「あなた」を排除せよという囁きであること、そして、人は誰も、いつでも排除される「あなた」になりうる可能性をもっていること。そのことに気づいた時に初めて、私たちは、この百年ほどの間、私たちを囲い込んできた「物語」の縛りからみずからを解き放ち、他者へと、物語の外へと想像力を広げ、別の新しい開かれた「世界/物語」へと向かうための出発点に立つことができる。
 日本人やら韓国人やらわからない曖昧な存在としての在日韓国人ではなく、正しい韓国人になるために、韓国文化を身につけよという「民族」からの言葉を耳にし、それにどうしようもない違和感を覚えた20歳の頃から、私は文化というものについて考えつづけてきました。考え、そして語ることは、私にとっては「居場所のない自分」の居場所を創りだすための試みであり、生きるということであったのです。
 おそらく、人ならば誰しも、特に思春期の頃には、自分を取り巻く現実に対して何らかの違和感や、漠然とした「居場所のなさ」というものを感じることがある筈です。その思いをどう解決すべきかという「正しい答え」を、私は差し出すことはできない。でも、その思いがどこから生まれくるのかということは、自分の生きていた経験の範囲から語ることはできる。みずからを縛っているものがなんであるのかということへの、気づきのきっかけくらいは差し出すことができるかもしれない。
 気づきは、さらなる問いを生み出すものです。
 じゃあ、これから私はどんな世界でどう生きていくべきなのか?
 私がなすべきことは何なのか?
 という具合に。
 ただ、「純粋さ」がフィクションであるように、「唯一の正しい答え」などというものもこの世には存在しません。それを誰かから与えられるはずと信じている限りは、私たちは、また私ではない誰かが作り出した「物語/世界」の枠組みの中に取り込まれ、みずからの生と想像力を囲い込むことになる。同じことの繰り返しです。
 答えは、それぞれの人生を生きている私たち一人一人が、見つけていく、あるいは創り出していくしかない。そして、そのようにして生きていく姿勢を共有することによって、それぞれに異なる私たちは共感をもって出会い、言葉を交わし、互いに生きる力を送りあうことができるはずだと、私は信じてもいるのです。