あとがき

 旅が好きだ。たいていは一人旅である。この十年ばかり、一年の三分の一は旅先にいたような気がする。
 仕事と関心が「東ヨーロッパ」といわれるところとかさなっている。それもかつては、ながらくドイツ語圏であったあたり、南はアドリア海から北はプラハ、ポーランド、バルト海まで。地図ではわからないが、いたって微妙な文化圏であって、いまなおドイツとスラヴとユダヤの遺産が共存している。
 旅先ではいたってナマケモノで、一つの町に着くと、そこに四、五日は居つづける。観光地といわれるところを訪ねることもあるが、それよりもむしろノラクラしている。幸いにも少しばかり言葉ができるので、ちょっとしたつながりができる。関心の赴くところから、思ってもみなかった人と出くわしたりする。
 一人旅はヒマなので、あらぬことを考えたり、よしない空想にふけったりする。現実の旅以上に旅先で思ったことが、もう一つの旅になる。
 そんな旅行記を書いてみたいとボンヤリ考えていた。旅のアルバムをととのえるように、旅の記憶に、それなりのかたちを与えてみたかった。
 機会が舞いこむと、ポツポツ書いていった。「山の隠者」(『山と渓谷』一九九六年八月)あたりが、はじまりだったのではあるまいか。つづいて「酒の哲学」(『サントリー・クォータリー』(一九九七年秋号)、明治屋の『嗜好』という楽しいPR誌にホテルをめぐって二つ書いた。ある画家の画集をながめていて「祭壇画物語」を思いついた。世の中には風変わりな蒐集家がいるものだ。ちょうど二〇〇〇年のことだったが、『フラワーデザインライフ』という雑誌に連載をたのまれ、そのとき一気に十篇あまりができた。あらためて記憶を確かめるようにして、このたび少しづつ手を入れた。
 思いの残る旅が、やはり物語をつくるようだ。書く機会を与えていただいた編集者の皆さん、どうもありがとう。晶文社の篠田里香さんが、とてもうれしい本にしてくださった。旅先での人たちをはじめ、おもえばこの上ない人たちと仕事ができた。
 池内紀
 二〇〇二年三月