「あとがき」より──日本の正しいおじさんの擁護と顕彰のために



 私自身は「日本の正しいおじさん」ではなく、どちらかと言えば「日本の悪いおじさん」である。
 インテリで、リベラルで、勤勉で、公正で、温厚な「日本の正しいおじさん」に、私自身は少年時代からずっと逆らい、噛み付き、罵倒し、いやがらせをし、反抗の限りを尽くしてきた。だが、それは私が彼らの存在を否定しようとしていたからではない。彼らを頼り、彼らを信じていたがゆえの「わがまま」だったのである。
 彼らこそ日本の土台であり、基幹であり、すべての経済的・文化的リソースの源泉であるという確信に、今も昔も揺らぎはない。
 正系あっての異端、メインストリームあってのカウンター・カルチャーである。「正しいおじさん」がどんと構えていてくれてこそ、「悪いおじさん」も心おきなく放蕩に耽り、「正しいおじさん」たちの勤労の成果を収奪することもできるのである。いうなれば、「正しいおじさん」こそは、私のような「悪いおじさん」がそれに寄生して生きていられる大事な大事な「宿主」さまなのである。

 しかるに、ここ三〇年ほどのメディアの論調を徴するかぎり、どうも「日本の正しいおじさん」の旗色はよろしくない。
 「進歩的文化人」は罵倒の枕詞となり、「家父長」は打倒対象となり、「常識」や「社会通念」は反時代的イデオロギーとしてごみ箱に棄てられてしまった。左はフェミニストやポストモダニストやポストコロニアリストからさんざんに罵られ、右は歴史修正主義者やナショナリストからこづき回され、「日本の正しいおじさん」たちは暗い表情でうつむいている。
 それでも、なんと言われようと、「正しいおじさん」たちは、仲間たちと手に手を取って額に汗して仕事をするのはそれ自体「よいこと」だという職業倫理からは逃れられないし、「強いお父さんと優しいお母さんとかわいい子供たち」で構成される理想の家族像を手ばなせないし、「強きをくじき、弱きを助ける」ことこそとりあえず人倫の基礎だと信じているし、争っているひとびとを見れば、ことの理非はともかく割って入って、つい「話せば、分かる」と言ってしまう。
 だが、いまはそういう「正しいおじさんの常識」が受け容れられる時代ではない。

 企業や上司に忠誠心を抱いて滅私奉公精神で働くサラリーマンは「社畜」と侮られ、「自分らしさの実現」や「われ一身の栄達」を優先的に追求することが「クール」な生き方とされる。
 公正な社会、それは能力のある人間が能力のない人間を「喰う」社会なのだ。それこそがグローバル・スタンダードなのだ、とアメリカ帰りのエグゼクティヴは豪語する。
 「強くて頼りがいのある家父長」として自己形成することが家庭を抑圧的な場にしてしまう。だから、「男も自分の弱さを許せ」「男も泣け」「男も生産しないポジションに身を置いてみろ」とフェミニストたちは煽る。
 正義とは努力の末に成就されるものではない。ただひたすら「他者」から到来する告発と糾弾に身を曝し、おのれの非を認めて、うなだれ、赦しを乞うことこそが正統的な正義のかたちなのだとポストモダニストは説教する。
 争っているものたちがいれば、つねに一方が正しく、一方は間違っている。その両方にむかって「ま、とにかく話し合いしましょうよ」とむりやりドローに持ち込もうとするのは、すでにしてステイタス・クオの絶対化、現状肯定への加担であるとポストコロニアリストは叱りとばす。

 「正しいおじさん」たちがその生き方の支えとしてきた「常識」はいまことごとく否定された。聖なる労働も、暖かい家庭も、「桃太郎の正義」も、「話せば分かる」も、かつて「日本の正しいおじさん」たちが心の支えとしてきた基本的なモラルは、「歴史のごみ箱」へ打ち捨てられようとしている。それなのに、「正しいおじさん」たちは、この状況にどう対処してよいか分からぬまま、ただ呆然と立ち尽くしているばかりである。

 「宿主」が陥ったこの危機的状況に際会し、これまで彼らにどっぷりと寄生してきた「悪いおじさん」もここで一肌脱いで、「正しいおじさんたち」の陣容の立て直しに一臂の力を貸してさし上げたいと思う。
 あなたたちは間違ってやしない。
 働くことはそれ自体よいことだし、仲間を信じるのはよいことだし、帰属する集団に忠誠心を持つのはよいことだ。
 家庭を持つのはよいことだし、妻は権力的で強欲であるよりは、優しく美しく慎ましい方がいいに決まっているし、子供は反抗的で病的で利己的であるよりは、素直で愉快で、快活で、家族思いである方がよい。
 民主主義はよいものだ。絶対的な正義を一義的に決定することは不可能だが、相対的な正義と「よりましな社会」の実現をめざして、話し合うことはできる。そして、「いまよりましな」状態めざして、コミュニケーションの回路を立ち上げるのは「よいこと」だ。
 私がこの本で述べているのは、そのような「二昔ほど前の常識」に過ぎない。
 こつこつ働き、家庭を大事にし、正義を信じ、民主主義を守りましょう。
 単純な目標だ。
 しかし、現代はこの単純な目標に向かって愚直に生きようとする人々にとって決して生きやすい時代ではない。
 不幸な時代だと思う。
 人々は国家を信じるのを止め、家庭を信じるのを止め、学校を信じるのを止め、会社を信じるのを止め、地域社会を信じるのを止め、歴史の進歩を信じるのを止め、神の摂理を信じるのを止めた。
 信じるのを止めたのにはそれなりの歴史的な必然があるのだから、それはそれで仕方がない。しかし、そうやってあらゆる支えを切り倒したあと、これから人々はどうやって支えなしで生きて行くつもりなのだろう。
 アウシュヴィッツのあと、もはや神を信じることはできなくなったと言い放つユダヤ人に向かって、エマニュエル・レヴィナス老師はこう語った。

 罪なきものが苦しむ世界に私たちはいる。そのような世界でいちばん簡単な選択は無神論を選ぶことだ。無神論を選ぶ人はこんなふうに考えている。神様というのはよいことをした人間には報償を、悪いことをした人間には罰を下す存在だ、と。つまり、神様とは、正義の配分をつうじて、万人を『幼児』として扱うのだ、と。無神論とはそのような考え方をする人がとる選択肢である。そういう理屈で、あなたたちは天空から住人を追い払ってしまった。なるほど、そうやってこちらのつごうで簡単に店立てを喰わせることができるということは、ずいぶんと低級な存在がこれまであなたがたの頭上には住まっていたわけだ。ではあなたがたに問いたい。このからっぽになった天空の下で、あなたがたは、なぜまだ意味があって善なる世界がありうると思えるのか。
(『困難な自由』)

 無神論者は「神の不在」の証拠を並べあげて「善なる世界はあり得ない」という結論を導く。彼らにはもう「支え」がない。ならば、エゴイスティックな欲望や世俗的な計算をプリンシプルとする非-霊的な生き方を選ぶ他ないだろう。
 クールだ。
 しかし、それは「幼児」の選択だとレヴィナスは言い切る。
 「大人」とは信じるものがなくなったとき、「信じるものがなくなった状況」を「信じる」契機に繰り上げることができるもののことである。
 レヴィナス老師はこう続ける。

 秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者のあり方、それを受苦と呼ぶ。この受苦が、いかなるかたちであれ救い主として顕現することを拒み、地上的不正の責任をすべておのれの身に引き受けるような人間の成熟をこそ要求する神を開示するのである。

 神に真に神的な威徳があるとすれば、それは「不義なるものが勝利し、義人が受難する」ような状況のもとでも、「人間が人間に対して犯した罪は人間が償う他なく、神といえども人間が人間に対して犯した罪を償うことはできない」と断言できるような、自立した人間の成立を要求したことである。

 不在の神になお信を置きうるとき、そのときこそ人間はみずからの弱さを熟知した成熟した大人となったと言いうるのである。

 私はレヴィナスがアウシュヴィッツのあとに神を信じるのを止めようとしたユダヤ人に向かって言った言葉を、そのまま暗い表情でうつむいている「日本の正しいおじさん」たちに向けて繰り返そうと思う。
 不在の「仕事」に、不在の「家族」に、不在の「正義」に、不在の「民主主義」に、それでもなお信を置きうるとき、そのときこそ、人間はみずからの弱さを熟知した成熟した大人になるのである、と。
 「おじさん」たちよ、よく聞いて欲しい。
 あなたがたが信じてきたもの、信じようとしてきたものはいま踏みにじられ、打ち捨てられようとしている。しかも、それに代わるものが示されないままに。
 それをそのまま見捨てるに任せるつもりなのか。
 弱肉強食の能力主義社会はそんなに素晴らしいものなのか。
 家族がそれぞれの利己的目標の追求に夢中になり、誰一人家長に敬意を示さず、集団の秩序のために貢献しない家庭はそんなに素晴らしいものなのか。
 暴力をふるうものは、どれほど正義を体現し、大義名分を掲げていようと、一抹の疚しさを覚えるべきだというのは、それほどに世間知らずな言い分なのか。
 民主主義は「よりましな選択肢への開かれ」を保証するという点において、どれほど「完璧」な政治体制よりも「まし」であると信じることはそれほどに素朴な考え方なのか。
 「正しいおじさんたち」がこれまで信じてきたもの、それはたしかに十分に説得的ではなかったし、歴史的風雪にも耐えられなかった。しかし、それを棄ててしまったあと、いったい何を信じることができるのだろう。どれほど脆弱なモラルであろうとも、「おじさん」たちが有り金を賭けることのできるどんなモラルが他にあるというのだろう。
 あるモラルの価値は、その内部に自存するわけではない。それに張られた賭け金の総額がモラルの市場価値を形成するのである。
 ならば、もう一度、「不在のモラル」に賭け金を置いてみないか。
 それがこの小著を通じて私が「日本の正しいおじさんたち」に送る連帯の挨拶である。