ヴェルニー公園にて 〜あとがきにかえて〜

 この本は雑誌「is」の連載が軸になっている。編集長の山内直樹さんは雲を突くような大男で、私の前に最初に現れた時にも、天井に頭をこすりながら歩いてきた。ような気がする。当時、私は美術館に勤めていたから、それなら高さ四メートルの天井を持つ展示室で会えばよかったと、あとになって気が付いた。
 「世の途中から隠されていること」というタイトルはすぐに浮かんだように思うが、山内さんの記憶では、「この人はいったい何を考えているのだろう」と不信感を抱いたそうだ。思い付いた経緯についてと、思い付きというものについては本文中に書いてあるので繰り返さない。
 連載が始まってすぐに阪神大震災が起こった。それで一回休載し、地震に関する章を本書の中にも設けた。本作りの常識からいえば閑話休題にあたるこの一章は、登場が早すぎるといわれたが、地震というものが非常識な出来事なのだから仕方がない。それは確かに唐突にやってきた。勤め先の美術館が壊れ、後片付けに追われ、しばらくして神戸を離れた。
 連載は落書きノートのつもりだった。実際に、そのころから落書きノートを持ち歩くようになった。表紙に大きく「1」と書いた。それが今では「67」になった。本書のすべてが落書きノートの中から出てきた。その多くは歩きながら考えた。したがって、あっちにふらふら、こっちにふらふらしている。
 いったん何かが気になり出すとなかなか離れられず、同じ場所をぐるぐると歩き回っていることがわかる。それでも次第に、近代日本がどう記憶されてきたかという問題へと関心が向かっていった。銅像や記念碑、宝物館や博物館の前をもはや素通りできなくなった。街道を外れてばっかりの清河八郎の物見遊山の旅を百五十年後に繰り返しているような気もする。

 思い付きはいつも風景の中からやってきた。それは現実の風景か過去の写真かを問わない。本書の表紙に戦艦三笠の写真を迷わず選んだのは、現実の三笠と写真の三笠のいずれにも打ちのめされたからだ。前者は進水したばかりで今にも港を出てゆきそうだし、後者は船にさえ見えない。前者が荒れ果てて後者になったのではなく、後者が新品同然の前者に変わったのだった。
 あとがきを書く代わりに、もう一度横須賀を訪れておきたいと思った。二年ぶりの三笠は相変わらずだったが、そこへと至る海岸の変貌ぶりは激しい。横須賀駅前に「ヴェルニー公園」が完成間近だった。ヴェルニーとは横須賀製鉄所建設のために、はじめは幕府に、ついで明治政府に雇われたフランス人技術者である。
 その功績を讃えたフランス風庭園!! フランス風花壇に洋風四阿、幕末の横須賀製鉄所で使われたというスチームハンマーの展示館は、なんとブルターニュ地方の民家風である。スチームハンマーはオランダから購入したというのに。
 横須賀市は、ヴェルニー公園建設の意義をこんなふうに説明する。「フランス人技師「レオンス・ヴェルニー」ゆかりのヴェルニー公園を、広く市民が憩い、親しめる場となるようフランス風庭園に改良します」(『横須賀市実施計画(第二次まちづくり三カ年計画)』二〇〇一〜〇三年度)。ちなみに、『第一次まちづくり三カ年計画』(一九九八〜二〇〇〇年度)では、それはまだ「臨海公園整備事業(仮称ヴェルニー公園)」と呼ばれていた。
 しかし、この文章は変だ。すなわち、「ヴェルニーゆかりのヴェルニー公園」は意味を成していない。むしろ「ヴェルニーゆかりの臨海公園をフランス風庭園に改良します」というべきだろう。しかし、それは正しくない。ヴェルニーは横須賀にゆかりの人物ではあっても、臨海公園にゆかりの人物ではないからだ。こう書くと、臨海公園にはヴェルニーの胸像があった。今もある。したがって、ゆかりの公園であることに間違いはないと反論があるかもしれない。
 時系列で考えることにしよう。ヴェルニーの胸像は横須賀製鉄所建設に尽力した幕臣小栗上野介の胸像とともに、一九二二年九月に、臨海公園ではなく、諏訪山公園山頂に建てられた。作者は朝倉文夫。ところがその二十年後、一九四二年になって金属供出のため撤去、代わりにセメント像が市役所前に置かれた。さらに十年が過ぎた一九五二年九月に、ようやく臨海公園に、ふたりの胸像はブロンズで再建された。作者は内藤春治、セメント像をもとにした。除幕式は第一回開港祭に合わせたものだった。
 肝心の臨海公園は、一九四六年十月二十日に開園した。この時には、二日間にわたって横須賀市民祭が催された。公園に市民祭!!それは敗戦後の日本で、軍港横須賀が新しく生まれ変わろうとする証にほかならない。それまでは、軍港に臨んだ公園などあり得なかったからだ。したがって、臨海公園が臨海公園であるというだけで意義深い。むろん、それが占領軍の手中で実現されたという事実も忘れてはならない。
 今日、臨海公園をヴェルニー公園と呼び代えることで、なるほど幕末の横須賀の記憶は蘇える。しかし、その代償として、日本海軍の軍港であった過去とアメリカ海軍の基地である現在とが隠される。いや、逆にそれらを忘れるために、一気に幕末へと戻るかのようだ。
 始末に困ったのが、もともと公園内にあった日本海軍にまつわるいくつかの記念碑である。それらはヴェルニー公園の端に集められ、横一列に並ばされた。まるで教室の隅に立たされたように、居心地が悪そうである。右から、正岡子規の句碑「横須賀や只帆檣の冬木立」、軍艦沖島の碑、軍艦長門碑、単に「国威顕彰」と刻まれた記念碑、軍艦山城之碑、海軍の碑。「国威顕彰」碑を除いて、すべての記念碑が近年の建立である。
 記念碑を動かすことにどんな議論があっただろうか。私が調べた限りでは、横須賀市議会建設常任委員会で二度(一九九九年九月十日と二〇〇〇年三月十日)論議されている。高橋敏明委員と青木良夫委員とが、横須賀の記憶をめぐって質問を繰り返していた。
 高橋委員いわく「余りこねくり回すと、その面影だとか何かが薄らいできてしまいます」「戦後ここが解放されて(記念碑が)できたのは、ここから横須賀港全貌が見えて、その人たちのいろいろな思いがここで見られるようにと皆さんがつくられた」(『横須賀市議会委員会会議録』第三四六号)。
 また青木委員いわく「幕末だけの問題ではなくて、戦前の様相も逐一伝えられるような公園づくり、公園を訪れた方々がわかるようなことであってほしいと思うのです」(『同会議録』第三四八号)。さらに青木委員はなぜヴェルニー公園と名前を変えたのか、それならむしろ小栗・ヴェルニー公園とすべきだと、もっともな意見を述べる。
 ふたりが問題にしたのはひときわ大きい「国威顕彰」碑で、一九三〇年代前半の建立、一等巡洋艦愛宕か高雄クラスの指令塔をモデルにデザインされたという。現在も残る逸見波止場逸見門衛兵詰所(こちらは横須賀市指定市民文化遺産)の間を抜けて入った正面に、この記念碑は立っていた。『横須賀市史』上巻(横須賀市、一九八八年)五七七頁の写真図版でその様子を見ることができる。それが何であったのかをきちんと説明すべきだし、それなら本来の場所を動かすべきではないというのがふたりの意見だ。
 しかし、もはや手後れかもしれない。議員に対する横須賀市側の説明は煮え切らないし、すでに記念碑が無惨な姿である。「国威顕彰」の文字を除く一切の言葉が剥ぎ取られているからだ。それはこの記念碑に限らない。記念碑を見る時には裏に回ることをお勧めする。言葉の削除や隠蔽、新たな落書きを、しばしばそこに発見するからだ。

 戦艦三笠の船尾近くに、「行進曲「軍艦」」の記念碑が立っている。黒い御影石に譜面が刻まれ、単純な曲だから、その前で容易に口ずさむことができる。私の世代には、むしろパチンコ屋から聞こえてきたなつかしい曲である。ところが、歌詞がそこにはない。
意図的に歌詞を外したのだなと、最初に訪れた時には思った。ところがその後、谷村政次郎『行進曲「軍艦」百年の航跡』(大村書店、二〇〇〇年)という本を読み、歌詞は碑の背面に刻まれていたが、横槍が入り、一九九六年七月二十一日の除幕式当日は黒いビニールで覆われ、現在は塗り潰されたことを知った。実際に足を運ぶと、確かにセメントが塗られ御影石の光沢を失っている。なるほど、記念碑は裏にも回らなければいけない。こうして記憶はいとも簡単に操作される。
なんとも皮肉なことに、三笠の船首近くには、「合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」」という記念碑が立つ。こちらはピラミッド型の上部四面に歌詞と譜面の両方が刻まれていて、好対照である。歌詞は八章から成り(一序章ふるさとよ、二黒船来たる、三衣笠城跡、谷戸の物語、祭(虎踊り)、白きかもめ−弟橘媛命追慕、七コンニチハ−港で、八終章−この手で)、見事に日本海軍の軍港であった横須賀が抜け落ちている。そんな歴史は何もなかったかのようにない。
呆然と眺めていたところ、記念碑の下部に装備されたスピーカーから、突然合唱が聞こえてきた。それはこんなふうに始まった。「近代の夜明けを告げし横須賀よ、試練を越えて立ちしいま、平和を願う新たなる、門出の街よ未来あり、ああ横須賀未来あり・・・」

 落書きノートのほかに、いつもカメラを離さなかった。でも、出来のよい写真はどれも、土田ヒロミさん、上野則宏さん、早坂元興さん、増田彰久さんのものだ。とりわけ、土田さんとは広島や米子や大船をいっしょにうろつき、上野さんとは東京大学構内を銅像を求めて歩き回った。みなさんありがとう。そして、私の落書きに形を与えてくださった『is』編集長の山内直樹さんをはじめ、『芸術新潮』の米谷一志さんや『UP』の小池美樹彦さんにお世話になった。さらにこうして本にまとめてくださった晶文社の足立恵美さんにも心からありがとうを言いたい。いや、言いたいのではなく、本当にありがとう。

二〇〇一年十二月一日 これまた本当にヴェルニー公園にて