あとがき

 一九九六年の暮れちかく、晶文社の津野海太郎さんが「ちょっと話があるんだ」と電話をかけてきた。その年の六月に、雑誌「頓智」が休刊になり、社内的にも閑職にいたぼくは、なんだろうと思って出かけていった。
 津野さんは、開口一番「本とコンピュータについての雑誌をはじめようと思う。二十一世紀に出版の世界がどうなっていくのかを考えていきたいんだ。一緒にやらないか」と力強く話しだした。彼は『本はどのように消えていくのか』という本を出版したばかりで、コンピュータ文化の進化と出版文化の変容について深い関心を抱いていたのだ。
 出版界では、営業の人間の場合は、会社をこえて一緒に仕事をすることも珍しくない。ところが、編集の場合には、ほとんどありえない話だ。前例のないことをやるのが大好きなので、ぼくは、他社の編集者とのコラボレーションという面にひかれた。その上に、ついこの間、雑誌を休刊した人間が、懲りもせずにまた雑誌に関わるというのも面白い、と一人で悦に入ったりもした。
 ところが、肝心のテーマについては、さすがのぼくもちょっと躊躇した。なぜならば、ぼくは仕事にパソコンを使ってはいたが、それ以上のことは皆目わからなかったからだ。でも、津野さんやボイジャーの萩野正昭さんの話を聞いていると、これからの出版界にとって、コンピュータが大きなテーマになることは間違いないと確信がもてた。津野さんが、声をかけてくれたのは、何かの縁だと思い、この機会に勉強させてもらおうと、萩野さんとともに副編集長になることを引き受けた。
 津野さんは、また、「この雑誌創刊には大日本印刷が全面的に支援してくれることになっている」とも話してくれた。出版人と同じように、印刷人も本の文化、ひいては印刷文化がどう変わっていくのかについて、強い関心を抱いているという。
 津野さん、萩野さん、そして大日本印刷の加藤恒夫さんとの話し合いを重ねていく中で、僕には、ささやかな夢が芽生えていた。「この機会に、印刷についてちゃんと勉強してみたい。印刷現場にいって、いろいろ聞いてみたい」ということだ。なんといっても、大日本印刷は、世界最大の印刷会社なのだから。
 もちろん、本の文化(印刷文化)からコンピュータ文化(デジタル文化)への移行過程の問題について、大いに関心はあったが、にわか勉強のぼくにできることは限られているだろう。それよりも、出版において印刷はどういうものであったか、またどうあるべきかを考えるのがぼくの役割ではないか、とも考えたのだ。
 誌名は「季刊・本とコンピュータ」に決まり、何回目かの編集会議の時、ぼくは思い切って話してみた。「出版というものは、印刷という仕事があって、はじめて成り立つものだ。これまで、印刷のことを本作りのなかで、必要に応じて学んできた。しかし、正直言って、それは断片的なことの積み重ねにすぎない。実は、印刷についてはわからないことだらけなのだ。この機会に、できれば印刷の現場を見せていただきたい。そして、ぼくの疑問に答えていただきたい」と。
 津野さんは「いいじゃない。それ面白いよ」と賛同してくれ、「まとまったら晶文社で出そうよ」とつけ加えた。加藤さんも「何でも言って下さい」と、全面的な協力を約束してくれた。
 印刷現場を歩いて、ぼくの理解したところをレポートする、ということは決まった。しかし、大きな問題があった。印刷現場で見たことを文章だけで表現するのは不可能だ。印刷機の構造や作業の過程を絵で示すことができればいいな、と思った、しかし、ぼくには絵が描けない。そこで、ある人物を思い浮かべていた。それは、「頓智」で書店の特集を組んだとき、人づてに紹介された内澤旬子さんだった。彼女は、イラスト・ルポといった仕事をいくつかやっていた。その絵は、細部にきちんと目を届かせながら、決して鬱陶しい感じにはなっていなかった。また、印刷や本について人一倍関心をもっているように見受けられた。お願いしてみると、「是非!」と快諾してくれた。
 それからというもの、内澤さんとぼく、それに「本とコンピュータ」編集部の河上進さんとは、ナビゲーターの方々に導かれて、さまざまな現場を歩き、話を伺っていった。取材現場では、ぼくは経験的にわかっていることも多く、そのつもりで、先に進もうとしがちだった。すると、内澤さんが「でも、どうしてそうなるの?」と素朴な、しかし鋭い質問を発するのだ。立ち止まって考えてみると、ぼくは、彼女に答えることができない。それどころか、実は何もわかっていなかったことに気づいて愕然とした。彼女が疑問を提示してくれたことで、よりしっかりと印刷というものを理解し、把握できることができたのだ。

 印刷現場への見学をお膳立てしてくださった方々、大日本印刷の加藤恒夫さん、永田 さん、長谷川 さん、それに、各印刷会社や印刷現場の人たち、忙しいお仕事のなか、長い時間を、僕たちのためにさいていただき、ありがとうございました。
 おかげさまで、出版印刷の世界について、ぼくなりに理解を深めることができました。そして、これからもお世話になる印刷のことを、きちんと見続けていきたいと思いました。
 単行本化にあたっては、晶文社の足立恵美さんにお世話になりました。この仕事は、自分にとっても大事なものだと思い、ちゃんと姿勢を正して向き合わなければと考えていたために、まとめの作業が遅れ遅れになり、ご迷惑をおかけしました。
 平野甲賀さんには、「本とコンピュータ」連載時のタイトル・ロゴからはじまって、単行本の装幀までお引き受けいただきました。おかげさまでこうして素晴らしい装いで本を出せることになりました。心から感謝しています。

 二〇〇一年十一月
 松田哲夫