アフガニスタンからの難民がイランとパキスタンに流入しはじめたのは、1979年からであり、またこの年からロシアの手先とみなされる共産主義者に対するレジスタンスが始まった。ヌル・モハメッド・タラキの傀儡政権が生き残れないことは明らかであったから、ソ連は一〇万人の軍隊を送りこんだ。アフガン人が「ジハード」(聖戦)とよぶレジスタンスがひろがり、すべてのアフガン人が反ソ連にたちあがった。ソ連はこれにミグ戦闘機、戦車、重砲で応えた。もっとも恐ろしい武器は、玩具や果物にみせかけた対人爆弾だ。パキスタンの病院は手足をふきとばされた子どもたちであふれている。
 抵抗運動が弱まったことは一度もなかった。最初はソ連軍から捕獲できた武器以外はなにもなかったとはいえ、ムジャヒディン(自由の戦士)とよばれるレジスタンスの兵士たちは、決して闘争をやめようとはしなかった。一部の西側ジャーナリストは、いくどとなく戦争は終わった、ムジャヒディンは敗北したと主張したがったようだが。(省略)
 現代でもっとも特異な戦争のいくつかが、最新の戦車部隊と、ぼろをまとい手製の手榴弾やパチンコや石や旧式のライフルをもった男、女、子どもたちの間で戦われてきた。アフガン人は凧に結びつけた手榴弾でヘリコプターを落としたことさえある。
 アフガニスタンの美しい場所は砂漠と化してしまった。貴重な美術品が豊富にあった古都も爆破ですべてが失われた。アフガン人の三人に一人がすでに死んだか亡命したかあるいは難民キャンプに入っている。しかも、世界はほとんど無関心のままだ。ムジャヒディン司令官の一人として有名なアブドゥル・ハクはこう語る。「ただひとつほんとうにつらいのは、最初は全世界がわれわれの味方だと思っていたのに、いまやまったく孤独だと悟ることだ」と。