光、色彩、透明感
僕の最近の仕事では、光とか、透けるものとか、色彩とかを意図的にデザインの要素として使います。
 それで存在がなくなるのではないけれども、光というのは、ある種の重量感からは解放してくれる。そこにいまとても魅力を感じています。同じく、色彩も、存在感や重量感をカバーして、軽減してくれるものだと思います。
 たとえば、最近デザインした棚は純粋な抽象形態で、ある種の原型というか、単なるグリッドですから、それが特性をもっているというものではない。これで試みようとしたのは、形態的なことではなくて、そこに色彩を加えることによってものの形を超えて、ものがさまざまな変化を持っていくのではないかということだったのです。
 (棚の仕切りが斜めに傾き、ゆらいでいるのは)、重力から逃れる方法を考えるとき、「ゆらぎ」も重要な問題だからです。
 当然、ゆらいでいないもののほうが安定している。ゆらいでいるものは、一種の不安でもある。不安というのは、接する人々の心に作用するわけですから、やはり一瞬でも物体としての存在感から解放されることでもあります。また、「ゆらぎ」は、日本文化のひとつのキーワードでした。……

引戸の発明

[ホリゾンタル]という近作の家具で重要だったのは、「動き」でした。固定化された状況から変化をもつということです。
 この場合の「動き」はスライドすることですが、このスライドさせるという動き方は日本的な動き方のひとつなんです。ふすまも左右に動きますし、基本的には、日本の棚や収納は全部引戸ですね。じつは引戸というのは西洋の家具にはあまり見られないものです。いま、ヨーロッパではこうしたデザインが結構はやっているようですが、それはもともとは日本の家具などが根源にあってできている形態なのです。
 西洋人にとって、左右への動きというのは、普段の日常生活にないから衝撃的だったかもしれない。彼らの日常にあるのは、開くドアだったんです。そもそもドアは閉じていることが基本です。だから西洋の家具は、閉じているときが正しい姿なのです。
 ところが、日本の建具は、ふすまに代表されるように、閉じておくことが基本ではない。むしろふすまは開けておくための方法なんです。左右に引く引戸はわれわれにとっては非常に開放的だし、それでも、空間を分ける機能を果たしている。
 日本人は直感的に、閉じておくのは息苦しいと感じてしまうのです。