「はじめに」より


 今、写真をめぐる環境は実に豊かである。たとえば、ここ数年来、日進月歩のスピードで進化を遂げているデジタル・カメラの楽しさがある。だが、また同時に、ライカなど数十年以上の時をこえて、現役で活躍するさまざまなアンティーク・カメラの人気も衰える気配がない。
 また通常の35mmフィルムでは飽きたらず、6cm×6cmなどの大きなフィルムを使うハッセルブラッドなどの中型カメラで、精緻な描写を楽しむこともできるし、他方、「レンズつきフィルム」カメラやコンパクトカメラで撮った写真を1時間以内で現像&プリントしてくれる店が、街のいたるところに出現し、実に気軽に写真を楽しむこともできる。
 写真、とひとことで言っても、このように最新テクロノジーからアンティークまで、精緻さから気軽さまで、実にさまざまな愉しみが存在していることがわかる。

 1950年代に作られたライカM3という白い金属製のほれぼれするような見事な精密機械に出会ったのが1980年代の後半だったが、私は、写真を撮る道具、というよりは、むしろ、そのモノとしての作りの美しさや圧倒的な存在感に打たれ、カメラの世界に足を踏み入れることになった。
 それからここ十数年、私の生活はいわば「写真三昧の日々」となった。古いライカをぶら下げて、隅田川沿いをゆっくり散歩する愉しみも覚えたし、深夜、暗室の中で現像液から浮かび上がってくるモノクロ写真の生成にわくわくする日々も過ごした。
 写真の趣味とともに海外旅行ががぜんおもしろくなり、ハッセルブラッドという重量級カメラを担いで、ヨーロッパの街を撮り歩いた。4×5の大型カメラのピントグラス上に映る世界の「像」の神秘的ともいえるあまりの美しさに深く感動する。デジタルカメラの出現に、期待と落胆と驚異とを覚えながら、写真がコンピュータ化することの意味や、複製芸術の意味を考えたりもする。200g程度の軽量だが、質感のあるコンパクト・カメラたちが出現し、写真ライフのおもしろさを再確認する。などなど、写真の豊かな愉しさは尽きることがない。
 写真生活以前、大学院生時代から写真に出会うまでの約十年間、わたしは、日々秋葉原の電気街に通う大のオーディオ・真空管アンプマニアだった。1950年代のアルテックの巨大な劇場用スピーカーシステムを部屋に持ち込んだり、秋葉原で戦前の珍しい欧米の真空管を見つけては、一行程度の規格特性表をもとに、シャーシ穴あけから配線、はんだづけで、オーディオアンプを仕上げた。実験的なものも含めたら、おそらく百台以上の真空管アンプを制作したはずである。いくつもある愛用のアルミシャーシは、何度も何度も穴を開けなおし、トランスをつけなおし、最後には、穴だらけでどれも使いものにならなくなった。
 私にすれば趣味の大変革だ、と最初は思った。だがよく考えてみれば、音を保存・再現する「聴覚的」機械から、像を保存・再現する「視覚的」機械へ、と興味が移ったにすぎないのかもしれない。見たものを保存すること、聞いたものを保存すること。これは両者ともここ百数十年の間に人類が初めて達成したテクノロジーである。そして人々は、この音と像の再現装置に驚くべきほどの興味とエネルギーを注いできた。
 「見ること」への欲望、見たものを保存する欲望は、カメラ・オブスキュラという装置から、像を保存する写真の発明をへて、ライカの登場、そして今日のデジタル写真へと連綿と続いている。

 今後、写真はどうなるのだろうか。動画映像の一部の静止画として、その独自の存在意義をなくしていくのだろうか。それとも、「決定的瞬間」の行為、として写真はさらにあらたな展開をとげていくのだろうか。まあ、将来の予測などはどうでもいいのかもしれない。私にとっては「写真」はかくも愉しい。そんな具体的な話のなかから、写真とは何か、がおぼろげに浮かび上がってきてくれればいいと思っている。

 本書の構成をあらかじめ述べておこう。
 第1章「進歩するもの、留まるもの」は本書の導入部にあたる。テクノロジーは、いったい何を変え、何を与え、何を奪っていくのかを総論的に考えている。デジタルカメラ登場時の衝撃、多階調印画紙との出会い、フィルムスキャナーの意義など、伝統的な古典的カメラ状況に、新たなカメラテクノロジーが入り交じっていく様子を論じてみた。
 第2章「モノクロの自由」においては、写真の原点とも思えるモノクロ(白黒)写真について、わたしがどんどんモノクロ写真の底知れぬ魅力に取り憑かれていくさまを論じている。ライツの焼きつけ機、フォコマートに耽溺していく様子、バライタ印画紙との壮絶な格闘などを通しながら、「古い」ことのよさを考えている。
 第3章「麗しのライカ、愛しのハッセル」では、わたしが写真生活に入り込むことになった、ドイツのカメラ、ライカについて論じている。わたしのライカへの愛情告白、といったところだろうか。さらに、その重さと不便さにも関わらず、写した写真の圧倒的な質の高さに、いつまでもそこから逃れることができず、常にそこへと立ち戻ってしまうスウェーデン製のプロ用中型カメラ、ハッセルブラッドについても論じた。とはいえ、ライカとハッセルは本書のどの章においても常に中心的話題となってしまっているのではあるが。
 第4章「『複製芸術』をこえて」では、現代の電子メディア時代において、写真のもつその複製的意味がどのように変容していくのか、このデジタル時代にあって、写真とはいったい何か、と考えてみようとした。わたしの哲学研究者という職業からすると、このような抽象的な議論こそ好みで、ベンヤミン、ソンタグ、ロラン・バルトらの写真論と正面から向き合い、それを乗り越えていきたい、と考えているに違いないと思われるかもしれない。しかし正直に言えば、わたしは「抽象的な写真論」というものにあまり興味がない。とはいっても、結語部分でごく簡単に、均等分されたコマ切れの時間ではなく、人間の有限性とからんだ「瞬間」とかかわる点に写真の本質は存する、という考えを述べておいた。「はじめに」と、この「結語」の箇所が、多少「写真論」らしいとも言えるだろう。この章では、さらに、静物写真の面白さ、拡大することの不思議、素晴らしきコンパクトカメラ、など写真の愉しみにも大いに触れておいた。
 本書はどこから読んでいただいてもよい。妙にシリアスになっていたり、浮かれていたり、考え込んでいたり、ただ夢中になっていたり……。そんなふうに、写真生活は豊かなのである。
 なお、本書は、月刊「日本カメラ」に30回連載した「哲学者クロサキの新・写真講座」(1996年から1999年まで)の記述をもとに、現在の状況を取り入れて、大幅に加筆し再構成したものである。そのために、時間的変化が決定的に重要なデジタルカメラ状況については、96年当時の出会いから現在に至るまで、むしろそのままクロニカルに記述を残してある。