あとがき  根をもつこと、翼をもつこと


 二〇〇〇年から二〇〇一年にかけての二年間は私にとってとても特別な年だった。
 それまで全く興味をもったこともなかった題材と、なぜか向き合うことになったからだ。
 ひとつが、広島であり、もう一つがカンボジアだった。
 どちらも、絶対に、自分とは生涯無関係だろうと思ってきた場所で、ほんとうに自分でもびっくりしてしまった。
 広島には五回通って、ただひたすらぼう然と過ごした。何をするでもなく街を散歩して、原爆ドームの前に座り川を眺めた。取材らしい取材をすることもなく、いつもデレデレとしている。それだけなのに、私の広島に対するイメージはどんどん変わっていき、一年前と今とでは考えていることがまるで違う。
 ああ、考えとはこんなにも変わるものなのか、と、実感してしまい、書き続けることが少し怖くなったほどだ。それでも、私は自分の心境の変化する様を体験するのが楽しかった。書くという行為を連続的に行っているから、このように自分の考えが変わっていくことが見えるのだ。新しい発見だった。
 逆を言えば、私は変わることができる。まだ、変わることができる。変わり続けることができる。
 私が変わる限り、私に訪れる怒りも憎しみも苦しみも永遠ではない。もちろん、それを同じ確率で愛も喜びも永遠ではないのだけれど。

 この二年の間に、いろんな場所をめくるめくように旅した。

 そして、たくさんの人と出会った。
 戦争によって故郷を失った人もいた。肉体的な損傷を受けた人もいた。民族的迫害を受けた人、科学の暴力に曝された人、家族を失った人もいた。私財を投じて他者を生かそうとしている人、失われたものを取り戻そうとしている人、共に他者の苦しみと歩こうとしている人もいた。
 それらの人たちの言葉に、私は魅了され、聴き入った。
 言葉の果てにぼんやりと感じたことがあった。それがこの本のタイトルにもなった「根をもつこと、翼をもつこと」だった。
 根をもつことと、翼をもつことは、まったく正反対の事のように思われるかもしれないけれど、私にとってこの二つは同じことだ。
 もっと厳密に言うなら、私たちは「根」と「翼」の両方を、もうすでにあらかじめ持っているのだ。そのことを忘れがちだけれど、誰もがこの両方を持っている。生きとして生きるすべての人が持っている。
 根とはルーツだ。
 ルーツのない人間はいない。誰もが誰かの子供であり、親にはその親がいて、またその親がいて……延々と過去へと繋がっている。
 翼とは意識だ。
 飛翔し、想像する力。イメージし、自由に夢想する力。
 根をもつこと、翼をもつこと。
 そのことを思い出し、それに支えられるなら、人はどのような環境においてもこの世界にしっかりと関与して生きていける。
 たとえ私が限りなく変わり続けようとも、根があるから戻ってこれる。
 たとえ私がある場所に縛りつけられても、翼があれば自由だ。

 それにしても、なんで二〇世紀に、私は自分のルーツや意識について、こんなに無自覚に生きてこれたのだろう。
 自分がここに存在していることの奇跡のような意味も、自分が自分という意識をもって生れたことの意味も、考えてもわかるはずのないこととして隠ぺいしてきた。
 わかりえないことについて、考えることを止めてしまっていた。
 いま、根をもつことと、翼をもつことについて改めて考え始めている。
 わかりえないことの意味を探っている。
 まるで禅問答のようだけれど、存在の背後の意味について考えることが、二一世紀の私の最初のテーマになりつつある。

 あらゆるもののなかに入っていきたい。そして、じっと見つめたい。

二〇〇一年九月一八日 田口ランディ