はしがき

 その中年男性は「K」をイニシャルとする名字しか名乗らなかった。連絡先も携帯電話しか教えてくれなかった。なんだか私は、後ろめたいことをした人にインタビューをしている気分になった。
 話の最中、Kさんの表情は真剣そのものだった。冷めたコーヒーをがぶっと飲んだ後に、ひどく低い声で、こう語った。
「自分で自分に腹が立ってくるときがありますよ、『この役立たず!』みたいな感じで。ええ、それはあります。『何でだ!』って」
「ひとりで抱え込まずに、奥さんと思い切って話し合ったほうがいいんじゃないですか」と私は言った。
「まあ理想でしょうね。そういうことについて話し合うなんて、夢ですけどね、僕なんかは。もう五十になろうとしている僕らの年代っていうのは、いまの若い人たちとは違って、オープンじゃないんですよ。暗黙のうちに、話すこと自体がタブーみたいになっているんですよ、『そういうことは話すもんじゃねえ』っていうね。女房もいっさい口にしないですから。本当はとことん話せるようになったらいいんでしょうけど……。終わった後でどうだったかとか、これはこうしたほうがいいとか、今度はこうやってみようとか、話せればいちばんいいんでしょうけど、なかなかそこまでは……」
 しかし不思議なことにKさんは、女友達には打ち明けているのだった。飲んでいる席で「この頃あっちのほうが弱くなっちゃってねえ」と冗談めいて話すことはできるらしい。Kさんを私に紹介してくれたのはその女友達だった。
 さらに私は質問を続けた。
「じゃあ、少なくとも、医者に相談してみてはどうでしょう?」
「勇気ないですね。本当は診てもらわなきゃいけないんでしょうけど、なかなか勇気が出ないです。ことがことだけに……」
 Kさんの苦悩は、私の想像を遥かに越えている。あまり無責任なことを言いたくはない。しかし妻と話し合わないこと、専門医にも相談しないことが、どうしても腑に落ちなかった。「そんなに苦しんでいるのに、なぜ!?」と思った。いや考えてみれば、それができないからこそ苦しいのかもしれない。
「男にとっては切実な問題ですよ。命にかかわることではないけれど、けっこう切実です。自分に占める割合っていうのは、大きいですよね。やっぱり男と女しかいないんだし、結婚して夫婦生活やってれば、それが大きな部分を占めるわけじゃないですか。やる気はあるんだけど、いざそのときに言うことをきかないっていうことになると、男の自分としては辛いですよ。俺はダメなんだみたいなね」
「自分を責めてしまうと余計に悪循環が……」
「出てしまいますよね。ただ、だからといって、俺は大丈夫なんだっていう気持ちは絶対に持てないですから、実際の場合」
 Kさんの口調が急に強くなったので、私は少々動揺した。気まずい沈黙に包まれた。
 唐突に彼が、こう呟いた。
「やっぱ女房のことも思っちゃいますしね。いつも悪いな、悪いなって思っているんですけどね、こればっかしは、言うこときかないもんでね、しょうがない……」
 眼鏡の奥のひとみがいささか潤んでいるように見えた。私は返す言葉を見つけられなかった。ただできるかぎり、この男性の苦悩に共感したいと思った。取材者としてではなく、ひとりの男として。
 本書はKさんのような孤立無援のED(勃起不全・勃起障害)患者にまず読んでいただきたい。私は彼らが本を読み終えた後、いくらかでも気持ちが楽になることを願っている。本書に登場する様々なED患者の体験談に耳を傾けることで、「悩んでいるのは自分だけではないんだな」「こういうふうにすれば乗り越えられるんだな」と胸に刻んでほしい。それだけでも勇気づけられ、展望が大きく開けてくることはあるはずだ。
 さらには、EDの治療意欲にも結びつけてほしい。Kさんのように病院に行かない患者は、まず何よりも意識改革が必要である。本書には専門医のアドバイスをなるべくわかりやすく整理して掲載した。この中から自分自身に適したアドバイスを選び出し、意識改革への契機をつかんでもらえれば幸いである。また、必要な医療情報としては、検査法、薬剤(化学薬品・漢方薬)、勃起補助具、鍼灸、手術、そしてサイコセラピー(心理療法)まで網羅した。ED患者の中には治療に対して偏見や恐怖を抱いている人が多いが、まずは最小限の基礎知識を身につけて偏見や恐怖を払拭し、医師に相談する意欲を養っていただきたい。
 また本書は、ED患者ではない方々へも多くのメリットを提供できると信じている。たとえば、これまでにED患者の本音を聞いたことがある人はどれだけいるだろうか。
 普通、患者は語らない。ひっそりと潜伏している。その理由はいろいろあるだろう。「インポ」という言葉で差別されてきたという歴史や、「男らしくない」「こんな弱みは見せられない」といった個々人の意識などなど。とにかくこの病気には強い心理的抑圧がかかる。それが当事者の男たちの沈黙を強いてきたのだ。
 しかし時代は変わった。「インポ」という差別語が葬られつつあり、「ED」という新語が堂々とマスメディアで使われ、一般にも浸透してきた。さらにバイアグラの製造・販売元であるファイザー製薬がテレビ・新聞広告を通じて大々的な啓発キャンペーンを展開し、EDに対する正しい認識も着実に広まってきている。
 だからこそ、いま、当事者たちが沈黙を破る絶好のチャンスなのだ。当事者たちの声が世の中に届いていく絶好のタイミングなのだ。
 そして裏返せば、当事者の男たちの話を真剣に聞きたがっている人たちも増えてきているはずだ。「自分自身もそうなるかもしれないから心構えを教えてほしい」「夫がそうなったから理解したい」など、動機は様々であろうが、どのような動機であれ、なるべく多くの体験談を聞くに越したことはない。
 そういう場合は、ぜひ本書を活用していただきたい。登場人物たちの話の中に、きっとあなたが求めている何かが見つかるはずである。