はじめに

 「一度しかない人生を、自分はいかに生きたのか」
 人間がこの世に生を享け、それをまっとうする際の最終命題はこんなことではないか、との結論に到達したのは、恥ずかしいのであるが四〇歳も半ばを過ぎたころである。
 ちょうどそんなとき、偶然「チェルノブイリ」との出会いがあった。
一九八六年四月二六日に起きた、チェルノブイリ原子力発電所の爆発事故は、原発史上最悪で、地球規模の環境汚染を招いた。なかでも原発の所在するウクライナ共和国の北隣にあたる、ベラルーシ共和国では、広範囲にわたって国土が高度の放射能汚染の被害を受けてしまった。その結果、汚染地帯を中心にさまざまな健康障害が発生し、とりわけ子どもの甲状腺ガンが驚異的な数で増加の一途をたどり始めたのである。
 「ひょっとすると、甲状腺専門医の立場で、少しは役に立つのでは……」
医療者として学んだ専門領域の知識や技術を生かす道が、ここにはあるかもしれないと考え、私はもうひとつの人生を探す旅に踏み切ったのだった。
 初めてベラルーシ共和国の汚染地を訪れたのは、一九九一年の三月下旬だった。以後、現地において小児の甲状腺検診を実施したり、首都ミンスクにある国立甲状腺ガンセンターをたびたび視察した。
 劣悪な医療環境下で、理不尽な手術を受ける子どもたち。しかも、手術手技に問題があることを知るにつけ、甲状腺外科医として「これは何とかしなければ」との思いがつのってきた。そして熟慮を重ねた末、ベラルーシに長期滞在することを決意し、九五年一二月末日をもって二五年近くお世話になった信州大学を退職したのである。なお、ベラルーシへ行くことになったきっかけや、当初の二年間の経緯については、『チェルノブイリ診療記』(晶文社)に詳しく記した。本書と合わせてお読みいただければ幸いである。

 私がチェルノブイリの医療救援活動に足を踏み入れたのは、あくまでも自分自身の人生を再構築(リストラクチャア)するため、そして、自分探しのための、身勝手な考えによる行動であったことを、ここに書き加えておく。