あとがき
--戦い終わって、日が暮れて。人生は試行錯誤のゲーム〜

 最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。ふだんは、この本の印象ほどには理屈っぽくないんですよ。放送局のディレクターや編集者には「コンさんは書くよりしゃべったほうがいい(笑)」ってよく言われます(ラジオの仕事、したいッス!)。
 さて、今回の執筆は「本って著者の成長記録みたいなものなんだなぁ」って、改めて痛感した体験でした。前作『家族新生』を書いてた時は、10年以上暮らした東京を離れて千葉の片田舎に「隠居」し始めて1年未満だったせいか、都会で受けたいろんな刺激(面白いイヴェントや興味をかき立てられる人との出会い)に未練たらたらでした。
 で、〈ムラ社会〉的な人たちにイラだってたんですね。自分が理解出来ない「他者」(リスカ依存者など)を見ると「ヨソ者」として徹底的に差別するか、狭い価値観に無理やり押し込めようとする人たちに。でも、田舎暮らしも2年目に入ると、かわりばえの無い毎日が逆に安心っていうか、少しずつ現実を受け入れられるようになってきたんです。
 生まれてから1度も他の土地に住んだことがなく、〈ムラ社会〉的な行動パターンに慣れきって「自傷他害」的に傷つけ合う共依存的関係に親しんでる人は、田舎じゃ珍しくないんですが、彼らも同時代のメディアの影響から逃げられない。最近はイヤでも「他者」と出会ってしまうんです。
 出会い系サイトで不倫相手を見つけた主婦が待ち合わせのファミレスに行ったら、同じ中学に通ってた男とバッタリ会ってしまい、お互いに「待ち合わせ」と言うものの、いっこうに「相手」が現れなかったり(笑)、居酒屋で仕事仲間に「こないだ深夜に駅前で座ってたプチ家出娘に『早く帰れ!』って叱ってやったよ」と言えば、「ごめん、それオレの娘かも」なんて謝られたり(笑)。
 「他者」と出会ってしまうチャンスが加速度的に増えてるんですね。時代はどうやら、「他者」と戦うのか、平和的に共存するのか、という選択肢を迫る方向に進んでる、そのためにコミュニケーションの訓練チャンスを増やしてるように見える。誰がなぜ僕らにそんなことをさせようとしてるのか、さっぱりわからない。「わけのわからない力」(歴史の大きなうねり?)が働いてる気もする。

 そこで思い出すのが、もう20年以上も前の昔、僕が中学生の頃に大好きだった竹宮恵子さん原作の『地球(テラ)へ…』というアニメです。人類が汚して住めなくなった地球から人類自身が自発的に宇宙へ移民する話なんですが、後から選ばれた者だけを地球に送り込むために、コンピュータに任せた人工授精による人口管理が行われるんですね。
 でも、「普通の人」以外に、「ミュウ」と呼ばれる超能力者がどうしても一定の確率で生まれてしまう。実は、コンピュータを作った科学者たちには、「普通の人」と「ミュウ」のどちらに人類の未来を預けたらいいかを決める自信がなかった。だから、「とりあえず」両者が生まれるシステムに設定しておいたんです。その事実を知るまで、地球に帰りたい「ミュウ」とそれを拒否する「普通」の人との間には、戦争が続けられたんですね。
 今日の依存者は「ミュウ」と同じ。「普通」の人と戦い続ける行為への依存を運命だと受け入れてシステムの破壊と新生をめざすか、戦いの果てに「普通の人」と共存するか、「ミュウ」の仲間だけでべつの星を暮らすか、その3択に悩まないでいられるか……。
 依存者にとってこのアニメは、『進ぬ! 電波少年』の土屋プロデューサーみたいに、「『普通の人』と共存しますか? しませんか?」と問いかけてくるんです。
 思えば、人類は20世紀という「近代」まで世界中で戦争をくり返してました。互いに相手を「他者」=自分の想像や理解が及ばないヤツと決めつけ、「力を笑える者はより強い力を持つ者だけ」「人類の進歩に戦争は必要悪」なんて言いながら、「全人類共通」の「不変」的で「絶対唯一」の「真実」に導くリーダーとしての「父」を求めてたんですね。
 で、「父」なしでは「一人では生きられない」かのようにさんざん叫ばれてきた。でも、ホントは違う。そんな「父」は夢の中にしかいないんです。自発性のおかげで1人でも満足に生きられる人間がなぜ「父」を求めるのか、僕は長い間、わかりませんでした。
 でも、多くの異なる「他者」との出会いをくり返していくうちに、出会いの反復こそが、既に自分を苦しめるだけになっている「古い生き方」のあり方を新しいあり方へと更新するために必要な存在だと気づいたんです。少なくとも僕にとって必要なのは「父」ではなく、「他者」だったんですね。満足以上に生きるには、「他者」なしにはいられない。
 いつの時代も、新しい世代は戦いという試行錯誤をくり返し、新しい世界を作ってきました。それだけのたくましさは、いつの時代の新世代ももっています。途中でドロドロした戦いになっても、バトル後は格闘技の試合のように「押忍!」とさわやかに互いに両手を握りしめて終わりたいと思うのです。

 この本の執筆中、テレビで坂本龍一さんの地雷ゼロ・キャンペーンの番組を偶然目にしました。『ZERO LANDMINE』という曲のCDを買うと、その売上げの一部が地雷の除去費に使われるんですね。地雷は戦争後も世界中に埋もれたままになってて、地元の人(とくに子ども)が今も爆死したり、手足をふっ飛ばされたりしてるんだとか。
 僕はそんなことにはあまり関心がなかったんですが、この曲をテレビで最初に聞いた途端、なぜか涙があふれてきて、どうしようもなかったんです。今もCDを聞きながら書いてるんですが、なぜか泣けて泣けてしょうがない。音楽にはそういう「わけのわからない力」があるのでしょうし、僕らが癒されるのはきっと「わけのわからない力」によって、なんだと思うんです。
 僕は今後も「他者」を求め、戦い、時に傷つけ、時に傷つけられながら、また新たな「他者」との出会いを夢見てしまうでしょう。でも、それでいいんです。今はそう思える。きっと、そのもがき(試行錯誤)の中にしか未来はないのだから。
 最近のアニメ『機動天使エンジェリックレイヤー』では、「運動が苦手」な12歳の少女「みさき」が、自分が自由に設定すればバーチャル空間で動く人形を買い、「ヒカル」と名づけて、(同じように自分で作った人形を持つ)強敵たちとバーチャル空間で戦わせるゲームに参戦します。みさきは叔母と暮らし、血縁上の「父」は暮らしの中にいません。彼女にとって自分を導く「父」の役割を結果的に負ってるのは、ゲームの相手になる敵や自分を応援してくれる味方だったりします。
 『ZERO〜』の歌詞も、母や兄弟が書かれてるのに「父」がいない。関西在住の女性が僕のBBSでそう指摘してくれました。
 「父」は時々いればいい。「父」の役割を負う「他者」も、その程度に必要であればいいんですね。そして戦争も、アニメやゲームでバーチャルに体験出来る時代になったんです。『ZERO〜』を買ってください。

 ODをくり返していた「エリシア」さんは、その後「最後の自殺未遂」をしました。また家族に隠れて薬を200錠も飲んで、1日半も経ってから発見されて入院。後日、僕のBBSで「既に瞳孔は開いていて、自力呼吸はしていたものの、虫の息」と報告した彼女は、入院先の病院から僕に電話をくれました。
「リスカなんて怖くてもう出来ません。薬も飲まなくて大丈夫。私は生まれ変わりました。生きてるのはなんて素晴らしいんだろう」
 拙著『家を捨てよ、街へ出よう』を読んで、僕が出没すると噂される都内スポットに出入りしてくれたおかげで出会えた遠藤綺野嬢が、銀河系のように広大に広がるネットの世界で、彼女自身のホームページの日記に書いた言葉を紹介し、この本を終えようと思います。
 「自殺について僕なりの僕への『癒し』だと思う。皆には迷惑かけているが、経過として思うならば、これは僕なりの『癒し』。なぜ自殺が『癒し』かというと、僕が僕を長い間縛ってきた者(僕自身)から解き放つためのものだと思うからだ。これからも多分、僕は自殺を図るだろう。それが『本気』か『冗談』かは僕にもわからない。ただ言えるのは、脱皮している最中だってコトだけ」