訳者解説「モリスとアイスランド」

 モリスは生涯に二度アイスランドを訪ねています。一度目は一八七二年の夏で、モリスは三七歳でした。ここに訳出したものは、この時の旅日誌です。モリスは終生、アイスランドの文学作品「サガやエッダ」を愛してやみませんでしたが、その誕生の地アイスランドを「聖地」に見立て、自分をそこへの巡礼者として位置づけています。同行者は、友人で数学者のフォークナー、アイスランド人でモリスのアイスランド語の師であり、共訳者でもあるマグヌースソン、そして、退役軍人で狩猟と釣りが目的のエヴァンズでした。エヴァンズはお互いの経費節約のために合流したのです。
 モリスは毎日の旅が終わった後、記憶が鮮明な内にその日の出来事をノートに記すことを日課にしていました。モリスは卓越した観察力を持ち、イメージの記憶力にすぐれ、描写力にも天性のものがあります。その日誌は二年後の、二度目の旅の直前にモリス自身の手で清書され、手を加えられて、親友のバーン=ジョーンズ夫人にプレゼントされました。ところどころに読者を想定したような記述があるのは、そのためでしょう。
 この日誌はモリスの生前に出版されることはありませんでした。死後、次女のメイによる序文が付されて、モリス選集のなかに加えられました。序文でメイは、「アイスランド訪問は父の生涯の出来事のなかで、画期的なもののひとつです」と述べています。これにはいろいろな意味があり、モリスのその後の生き方そのものに大きな影響を与えたことがまず挙げられるべきでしょうが、もっと具体的な意味でも、それはモリスにとって、「一大事業」であったのです。「旅慣れた旅行家なら、六日間の船旅と友人に囲まれての六週間の騎馬旅行という冒険は何でもないでしょう。しかし、私の父は旅行家ではありませんでした。父は自然のなかで育ち、自然の知識をたくさん持ち、そして自然を愛していましたが、毎日の生活は机に向かうことでした」(『日誌』序文)。
 飛行機のある現代でもアイスランドは遠い国です。当時は車もなかった時代です。メイの記述にあるように、モリスたちの旅は、豪華船とはとてもいえない船に揺られ、大量に荷物を持参し、ポニー三〇頭を引き連れて、基本的には野営をしながらの六週間でした。
 モリスは友人に恵まれた人ですが、アイスランドへの関心を共有してくれる友だけはいませんでした。同行したフォークナーは北方の事柄に比較的興味を持っていましたが、モリスの情熱やモリスがとらわれていた、(メイのことばを借りれば)「魔術的夢」の中には暮らしておらず、純粋にモリスへの友情から発して同行したのでした。
 バーン=ジョーンズをはじめ、ロセッティその他の友人たちは、むしろモリスのアイスランド熱をなかば、揶揄して面白がっていたようです。モリスがアイスランド旅行について、初めて語った手紙が残っています。一八七一年五月一〇日付けで、ローマのイーディス・マリオン・ストーリーに宛てたものです。

 

 私は今年長い旅をしようとしています。あなたは、芸術のお仕事と美しい気候という贅沢のさなかにいらっしゃるから、私の選択を聞いて、身震いなさるでしょう。イタリアなら、人はいつでも行きたいと思うでしょう。しかし、誰もわが身をアイスランドへ追いやろうとは思いません。芸術は皆無ですし、ほとんどの人にとっておもしろいものは何もありません。あるとすれば、その風変わりな様子と野生だけです。しかし、私は、そこに行かねばならない、物語の背景を見なければならないと、長い間思っていました。それらの物語に対して、私はたいそう共感を感じていますし、アイスランドはその不思議なイマジネーションを生み出し、育むのに関係があったに違いないからです。

 モリスが言う「物語」とは、アイスランドに遺された文学的遺産で、本書の中でもたびたび言及されている「サガ」を指します。サガについては、後で説明しますが、アイスランドは、『エッダ』という、いわゆる「北欧神話」を含む書物が遺された土地でもあります。モリスはオックスフォード大学時代に、北欧神話に出会い、以来、アイスランドとその文学に魅せられてしまったのです。前にも述べましたが、モリスの友人たちは、アイスランドは寒くて冷たい国で、文学も野蛮と決めつけて、モリスのアイスランド好きをついに理解しませんでした。
 しかし、モリスの仲間以外へと視野を広げると、モリスのアイスランドへの情熱は突飛なものではありませんでした。イギリスに於ける、アイスランドへの興味は北方ルネッサンス以来徐々に高まってきていて、意外なことに、アイスランドへの旅は、当時のヴィクトリア朝の教養人の間では、一つのブームだったのです。教養のある家庭では、「アイスランド」という言葉は、サガとエッダの生まれた国として、むしろ現在より、「日頃よく聞かれることば」だったといいます。当時のいわゆる「僻地」への探検ブームと相まって、アイスランドは文学者、考古学者、歴史家、文法学者、言語学者、博物学者などが、その自然と文学から、刺激を得た場所だったのです。
その風潮を作り出すのに、大きな役割を果たしたのが、カーライルの『英雄崇拝論』(一八四一)です。一九世紀前半に出版された書物で、これほど読まれたものは稀だといわれています。カーライルがその本の冒頭に取り上げた英雄が、北欧神話の主神オージンでした。北欧神話の誕生地アイスランドについても的確なことばで紹介しています。カーライルのこの本に啓発されて、アイスランド学を目指し、アイスランドに旅した人も多かったのです。今日からみても、驚くほど多数の旅行記が一八世紀末から一九世紀にかけて、出版されています。
 アイスランドに引きつけられた人々は大きく三つに分かれます。第一のグループは古い文学に魅せられた人々で、モリスはここに入ります。第二のグループはアイスランドの特異な地質構造に興味を持った人々、第三のグループは釣りや奇異なアイスランドの景観に関心を示した観光客でした。これは、現在でも変わっていません。教養人の知的関心とは別に、観光を目的とするイギリス人が多かったのは、当時、人気を博し版を重ねたというマングノール女史の教科書『クエッションズ』のなかで、アイスランドのことが取り上げられたことが一因らしいことは、モリスの記述からも窺えます。
 とにかく、アイスランドは不思議な国です。わが国では今でもよくアイルランドと混同されますが、アイスランドはノルウェーの西方の北海に浮かぶ島国です。北海道の一・二倍くらいの面積に現在は約二七万人が住んでいます。今は急速に人口が増えていますが、モリスが訪ねた頃は五万人くらいだったとされています。国土のほとんどが不毛の地です。氷河と火山が一緒に存在し、火山から流出した溶岩が国土のいたるところに見られます。その景観はモリスが詳しく描写しているとおりです。人びとは谷や海沿いにわずかに存在する草地に農場を建て、漁にいそしんで生計を立ててきたのです。農業といっても家畜の飼料にする干し草作りが主たるものでした。八月の末にはもう雨風がきつくなり、来る厳しい冬を予感させます。しかし、夏の穏やかな日の美しさは喩えようもありません。現代では、地熱利用が進み、世界でも有数の清潔で近代的な生活が営まれており、平均寿命も日本と一、二を競っています。
 圧倒的なすばらしい自然、厳しい気候、国土面積に較べれば少ない人口。アイスランドでは大自然の中に人間が点在しています。モリスがアイスランドへの旅を終えて、エディンバラからロンドンへ汽車で帰る途中、窓から外を見て、「人や木々が舞台上の風景のように異常に大きく見えた」のはそのためでしょう。水準の高い生活は、人びとの絶え間ない努力の上に成り立っているように思えます。ちょっとしたことで、国土が荒廃の一途を辿っても不思議ではありません。北国独特のアルコール中毒者も多いとききます。しかし、モリスがフェロー島の男の顔に認めたメランコリーは、アイスランドではあまり見られません。
 人口は、私の住む相模原市の半分です。しかし世界の著名人名簿に掲載されているアイスランド人の数は、人口比では世界一番だと誇らしげに語るアイスランド人もいます。私はアイスランドを訪ねるたびに、アイスランドの人びとはそのひとりひとりが大事な存在であること、またひとりひとりの能力が十分に開発され、発揮されているという印象を持ちます。アイスランドの人びとが持つプライドと実力は、国が独立を失っていた数百年間のあいだも、営々とサガを読み継ぎ、手稿本を作り続けてきたことと関係があると思われます。つまり、アイスランド人を支えているのは、「エッダとサガ」という文化遺産なのです。外来語を排し、アイスランド語の純粋性を保とうとする政策もこれと関係があります。また、アイスランド人は独特のユーモアのセンスを持ち、今でも幽霊話を好みます。
 モリスのアイスランドとの真の関わりは、「本物の」アイスランド人のエイリークル・マグヌースソンを紹介された一八六八年に遡ります。マグヌースソンが後にその思い出を語っていますが、彼はモリスが披瀝したアイスランドに関する知識に驚嘆したといいます。神話、歴史、サガ、地理に関して、自分の読書歴を語りながら、二人は夢中で語り合ったといいます。モリスは、その日ただちに、以後週に三回アイスランド語を教えて貰うことを決め、いきなりサガを読み始めました。二週間で『グンラウグルのサガ』を読み終え、つぎに『グレッティルのサガ』を読んだのです。モリスはマグヌースソンに「君が文法だ」、と言って、語源、文法、文論の説明をさせ、サガを一緒に読み、その日読んだ部分をマグヌースソンが自宅で逐語訳をしてきて、次回にモリスに渡し、モリスは暇を見つけては、それを自分のスタイルに書き換えて、印刷屋に渡したと言います。
 『ヴォルスング・サガ』の出版は一八七〇年のことですが、その序文でモリスは、「このサガは野性味と異質性が目立つが、実はおどろくべきリアリズムと深遠さ、そして、情熱 が満ちあふれているので、洞察力のある読者ならば必ずや共感を見いだすだろう」と述べ、これはゲルマン民族にとってギリシャ人のトロイ物語に匹敵すると絶賛しています。
 モリスの大作長編詩『地上楽園』(一八六八―一八七〇)も旅の前に書かれていますが、アイスランド・サガ『ラクサゥル谷の人びとのサガ』に影響を受けていることはあきらかです。
 一八七二年、モリスはサガに対する並々ならぬ愛情とある種の思いこみを抱いて、サガの背景を見ようと、少年のようにワクワクしながらアイスランドを訪れたのです。景観も出会った人々もモリスを裏切ることはありませんでした。しかし、モリスがサガに読み込んでいた《栄光と熱望》、《情熱と勇気》が現実のアイスランドではすでに死に絶え、代わりに《卑小さと無力》が支配しているように思え、また、モリス自身の疲れもあったのでしょう、何とも言えない「落ち込み」を感じた日もあったことが八月六日の記述に表れています。いっぽうで、社会主義者としてのモリスの出発点である、「どんなに貧しくても階級社会よりはましだ」というアイデァもアイスランドで得たのです。
 二度のアイスランド旅行を終えたのちもアイスランド文学への情熱は衰えず、大部の『ヘイムスクリングラ』を含む五冊の翻訳集『サガ・ライブラリー』、シグルズル伝説に取材した物語や詩の創作その他の活動を亡くなるまで続けています。
 モリスの愛すべき純粋で高潔な人柄はこの日誌の随所に表れています。モリスは驚くべき量の、そして多領域に渡る活動をその六十二年の生涯において行ないました。アイスランド文学との関わりはその一部に過ぎませんが、アイスランドへの愛情は一生涯持ち続け、アイスランドをもう一度訪れることを最後まで夢見ていました。この稀有な人であるモリスが傾倒した国という「エピソード」とこの旅日誌を遺したことで、モリスはアイスランド人に「ウィリアム・モリスのサガ」をプレゼントしたと言っていいでしょう。