はじめに

 江戸時代の民衆、特に十八世紀半ばに入ってからの日本の一般民衆は、世界でも名うての旅行好きであった。日光を見ないうちは結構と言うな、伊勢参りをしないうちは一人前の男として認められない、可愛い子には旅させよ。こうしたことわざはみんな、江戸時代から庶民間に伝えられてきたものだ。狂言「今参」にも、「若いとき旅を致さねば、年寄りての物語がないと仰せらるるによって」と、都に旅立つ若者が登場するから、江戸時代以前から、旅は広い世間を体験して、人間として成長して賢くなることであると考えられていた。
 ところが江戸幕府も諸藩も、庶民が気楽な旅をすることをできるだけ制限しようとしたのである。旅をしている期間は土地が放っておかれる。旅に行くのはほとんどが農閑期であったが、そうした時期にもナワやムシロを編み、糸つむぎ、機織りなど労働は山とある、一刻も休むな、というのがたいていの領主の考えであった。江戸時代の諸藩は、大ざっぱにいえば自給自足の独立国である。田畑や商品価値の高い特産物なども、すべて領民の「朝は朝星夜は夜星、昼は梅干し食べて働く」という絶え間のない労働が基になっていたのである。農具の工夫や植物改良などもなされてはいたが、地面に這いつくばっての人海戦術であることには変わりがなかった。
 江戸時代後半には庶民間にも多少の生活のゆとりがうまれてくる。街道からはずれた村々や山間部の集落にも、外部から様ざまな人が入り込んでくる。商人や放浪の宗教者、そうした人々に一夜の宿を貸し、その代わりに人々は情報を得ていた。情報などという大げさなものでなくても、何気ない世間話や眉につばするような奇譚、あるいは芸能や学問の話にも、老いも若きも目を輝かせて聞き入った。近くの信仰の場所や湯治場などでも、遠くまで旅をした人の体験談を聞く機会は少なくなかったのである。
 こうしたことに触発されてということもあっただろう。生まれた土地を離れ、どこか遠くに行くことができれば、それこそ年取ってのからの話の種になる。広い世間を見れば人間的にも成長するだろう。漠然とそう考えた者の他に、生活苦から逃げ出した者も少なくない。病気治療の湯治、心願ゆえの巡礼などと称して国を出、そのまま戻って来ない者さえでるようになる。東北などでは、飢饉のために大挙して農民が離村・逃亡することが続いた。
 領主の経済基盤である土地から領民がいなくなれば、年貢を取ることが出来なくなる。一割の武士の経済をささえていたのは、八割の百姓と一割の職人・商人であった。ここではこの八割の百姓(専業農民と他の仕事も兼務する農民、及び山住みの民と漁民たち)と一割の職人・商人を含めて庶民と呼ぶが、彼らの日常生活は「分をわきまえよ」といわれ、わずかな贅沢さえ禁じられていた。百姓が着るものは木綿に限り、下駄や足袋などの使用も許されなかったという厳しさである。
 こうして極度に消費が押さえ込まれた日常だったからこそ、そこから逃れる夢が生まれる。それが旅であった。彼らは旅の中で開放されようと、反動的に一気に散財することになる。窮屈な日常から抜け出したいという気持ちを抑えられず、借財してまで旅に出る者も跡を絶たなかった。その結果、借りを返せぬまま没落してしまうことも少なくなかったのである。
 旅には多大な費用がかかる。十の村から二、三人が旅に出ても、領内全体では何十人、何百人にもなる。その費用は巨額に達した。それがみな他国へ持ち去られてばらまかれるのだから、各藩が旅という浪費を極度にいやがったのも無理はない。また旅人が多く出れば、あたかもその藩が豊かであるかのように見られ、幕府からどんな巨額な手伝い普請を押しつけられるかも知れない。封建領主にとって庶民の旅は頭の痛いことばかりで、正当の理由がない限り出国を認めないのが普通であった。
 ということは、正当な理由があれば旅は認められたのである。
 正当な理由の第一は信仰の旅に尽きた。特に天皇家が祭る伊勢神宮は全国の総氏神化していて、ここに参詣することは国民の義務であるような言い方をする地方さえあった。伊勢詣を名目にすれば、領主は旅を禁止することが出来なかったのである。
 あまりに大勢が伊勢へと向かったために領内が疲弊したため、数年間は国を出ることを認めなかったり、人数を極度に制限して参宮させた藩も多い。全面的に禁止すれば反発と抵抗にあい、かえって政治的危機を招くことにもなりかねなかったからだ。
 禁止された年でも、ひそかに参宮する者が後を絶たなかったという。こうして伊勢参宮や善光寺詣、金比羅・西国巡礼などを名目に、人々は驚くほど広範囲の旅に出て行ったのである。
 旅、それは夢のようなものとして、多くの人々の胸にしまいこまれていたのである。
 そうした旅へのあこがれに背を押し、手を取って外に導き出した最大の功労者といえば、御師であろう。御師は信者を獲得するために全国に出かけて行った祈祷師集団で、伊勢神宮、富士山の浅間神社、相模の大山、加賀白山、出羽三山などが有力な集団を結成していた。彼らは本山や本社に実際に参詣することを盛んに勧め、自宅(宿坊)に招いて泊まらせることはもちろん、道中の道案内さえもかって出たのである。
 特に伊勢の御師たち(伊勢だけはオンシという)は、大麻(お札)と耕作の目安になる伊勢暦を持参して諸国の隅々まで入り込み、伊勢信仰を喧伝してまわった。庶民の伊勢信仰はすでに平安末期からあり、室町時代には、伊勢に近くて比較的経済的に安定した地域に御師が出入りし、参宮するように勧誘していたといわれる。
 江戸中期以降になると、各地で商人をはじめとする庶民の生活にも余裕が出はじめ、もう伊勢参りは一握りの地域が独占するものではなくなっていた。旅への夢もふくらんだことだろう。しかし長期にわたる旅の資金をどうするかとなると、二の足を踏む者も多かったに違いない。
 そうした者たちに対して、御師はすばらしいシステムを編み出した。それが伊勢講である。室町時代にすでに畿内およびその周辺地域で組織されていたのだが、いよいよこれが全国に展開されるようになる。人びとは伊勢講に加入し、毎月わずかずつだが積立金を払う。講員はこの積立金を使って、数人ずつ順番に伊勢へお参りに出かけたのである。
 伊勢に着けばなじみの御師が手を取るようにして迎えた。御師の家では、口にしたこともない贅沢なご馳走に、ふかふかの布団、夢見るような一夜をすごし、翌日は大金を払って太神楽を奉納し、二見ヶ浦や朝熊山を見物、夜は名高い古市の伊勢音頭を覗き、話のついでにと遊女を上げ、帰りには万金丹を買い、また御師からみやげをもらって奈良へ向かうという壮大なコースが成立した。出発は一月から三月までの農閑期が選ばれ、江戸周辺からだと、一ヶ月半から二ヶ月以上かけてまわるようになったのである。
 そのコースは東海道を行き、家康を祭る久能山に寄り、東海道をはずれて火伏せの神として信仰を集めていた秋葉山に参拝、ついでに鳳来寺にも足をのばし、再び東海道に戻って名古屋から津島天王に参拝。それから伊勢へ行って神楽を奉納。ここから奈良へ出て名所見物、大坂に向かって大いに芝居を楽しんでから船で金比羅へ。金比羅参拝後は中国路を大坂に戻り、京でお寺めぐりをしてから、中山道を通って江戸に向かうというものであった。また奈良から紀伊川沿いに下って和歌山を経由して大坂に向かったり、金比羅から自腹を切って四国の八十八ヶ所の札所をめぐったり、安芸の宮島まで足をのばしたりし、帰り着く前に伊香保の温泉につかる者も少なくない。
 一般庶民が自分だけの力で長旅をするのは経済的に無理だったとしても、講に加入し、講員を代表して参詣するのであれば十分に可能であった。講員であればいつかは代参する順がまわってくる。名目は信仰の旅であるが、長い道中には思わぬおもしろいことが待ちかまえているに違いない。御師たちは今の旅行代理店顔負けの営業活動をして、庶民たちを旅へとうながしたのである。(後略)