三島由紀夫に言わせると、文庫本の「解説」は日本人の勉強癖が生んだ、いかにも日本的ないびつな産 物だそうである。だが、私は、この「解説」というものを、むしろ、またとない素晴らしい日本人の発明 品だと思っている。なぜなら、それが目当てで、単行本を買った本を文庫本で買い求めることもあるから だ。とりわけ、うまく書かれている解説の場合は。
(中略)私としては、この「解説だけをまとめた本」に拘りたい気持ちが強かった。それというのも、 解説には解説なりの文法というものがあり、それは書評の文法とも批評のそれとも異なるものと理解して いるからである。つまり、私は、日本独特の文学的制度である解説というものが発達を続けるうち、その 内発的かつ外発的理由により、ある種の理想形に収斂してきているように思ったのである。それを私なり にまとめて箇条書きにしてみると次のようになる。

一 解説はオードブルであると同時にデザートでなければならない。つまり、読者が本文を読む前に、 その概要をつかむための紹介的役割を果たす一方、本文読了後に、感想を確認したり、理解を深めたたり することのできる批評であることがあ要求される。
二 解説は、本文の解説であるばかりか、著者の本質への理解を含んでいるべきである。なぜかという とに、その解説によって、読者が著者の本質を捉え、著者の他の本にも興味を持つことが最も望ましいか らだ。
三 解説は、それだけで一本のエッセイとして読めるような構成力を持っているべきである。いいかえ れば、解説のみを読むためにその文庫を買うという読者がいることが理想的である。しかし、解説は解説 者の私的エッセイであってはならない。
四 解説は、著者を勇気づけて気持ちよくさせ、なおかつ読者をおもしろがらせる必要がある。たんな る著者へのおもねりはかえって読者をシラケさせる。(以下略)