「訳者あとがき」より

 「ちょっと飲み過ぎると、私はいつも『タイムズ』にくだらない手紙を書きたくなるのです!」とグリーンは書く。酒を飲むとつい、人に電話をかけてしまう、説教をしてしまうなどの癖を持つ人間は少なくないようだが、イギリスの場合は、これに加えて「新聞に投書をする」というのがある。もちろんこれは酔っ払ったときに限らないが、なにかあると、「投書するぞ!」というのがひとつの脅し文句ともなり、あるいは負け惜しみの言葉ともなる。投書というのは、意見の交換の手段であり、抗議や説教を聞いてもらえる方法なのである。
 「タイムズ」や「ガーディアン」や「デイリー・テレグラフ」などの新聞、あるいは本書にも何度もでてくる「スペクテイター」や「ニュー・ステイツマン」といった雑誌の投書欄を見ると、著名な作家、評論家、政治家などの名前が今も見られる。世の中で起こっているあらゆることがらに対する、一家言ずつありそうなこれらの人々の発言は、日本だったらテレビという媒体を通して伝えられることが多いのかもしれない。イギリスでももちろんトークショーの類がないわけではないが、そう多いわけではない。しかし彼らの意見、反論、説教を聞くことができる場はやはり、新聞や雑誌の投書欄なのである。
 もちろん投書欄は、これらの「文化人」や政治家のみが発言する場所ではない。『カッコウ第一号』という本がある。これは『タイムズ』に寄せられた投書の傑作集なのだが、この題名は、「今年になって初めてカッコウの鳴く声を聞きました」と書いてくる、一般読者の投書からつけられている。さて、この本の序文で、バーナード・レヴィンは次のように書いている。

 人が新聞に投書をするときの衝動と、生活のために執筆をするという衝動にはどこか違いがあるのだろうか……。私はそうは思わない。われわれは皆、紳士もプロも同じく、われわれの意見をとくに求めてもいない何千人、いや何百万人もの人々に、自分の見解を表明するという仕事(よく考えてみるときわめて奇妙な仕事なのだが)に従事しているのだ。

 「紳士もプロも」という表現は、アマチュアリズムを紳士の美徳とするイギリスらしい表現だが、投書をする人間は、一方的に自分の意見を公の場で発表するという点では、プロのライターと同じようなものなのだと彼は指摘する。
 しかしいうまでもなく、投書というものは報酬のない、任意の行為である。たとえグリーンのようなプロのライターが書いたものであっても、投書というかたちで意見や抗議を表明すれば、それは「紳士」、つまりアマチュアとして行なったことになる。だからこそ、ある意味で勝手なことも言えるし、皮肉やいやみをたっぷりもりこんだ文章も書くことができるし、あるいは、自分の意見を正当化したりもできるのである。(中略)本書は、ベトナム戦争、キューバ危機、冷戦といった戦後の世界の〈大きなできごと〉から、酒の勢いからできてしまった「イギリス・テキサス協会」の顛末や「あてにならない郵便」への不満などといった、日常の〈軽いひととき〉に関するグリーンの、投書という「アマチュア」の場でのコメントと解釈だといえる。
 編者クリストファー・ホートリーは、カーボン紙に残された手紙の控えや膨大な切り抜き記事と奮戦し、「本二巻分にもなる」というグリーンの投書の中からこの一七六通を選びだしたという。(中略)イギリスの新聞や雑誌は、対象となる読者の年齢、階級、思想、政治的傾向などがはっきりしているため、記事や社説もいわば「内輪」向けのような性質があり、その時代にその国に暮らしていないものにとってはわかりにくいことが多く、これが投書となるとなおさらのことだった。そのうえグリーンは投書先を、左翼の知識人が読者である「ニュー・ステイツマン」から、保守的なアッパー・ミドル・クラスを読者とする「スペクテイター」まで、幅広く、それぞれの投書先に合わせて題材や書き方を自在に変えている。そこでホートリーは細かな解説を付し、「時間が経っても色褪せることがない」グリーンの投書の魅力を紹介している。実際、これらの投書が動機となって作品に結実したものも多く、また、未発表の手紙もあり、グリーンファンにはたまらないものだといえるのではないだろうか。