訳者あとがき

 娼婦とスパイは人類史上もっとも古い職業と言われる。古来、娼婦は真偽不詳の哀れにも悲しい身の上話で客を操り、スパイは世界を相手に秘密入手競争を展開してきた。いずれも身を挺しての情報戦士だ。ただ、スパイはよほどの事情がなければ、自分の素性を明かさない。
 しかし、世界のスパイ史上でも珍しいスパイの身の上話ブームが起きた。それも、およそ七十年間秘密の王国と言われ続けた超大国ソ連の国家保安委員会KGB(ロシア語読みでカーゲーヴェー)の超ベテラン・スパイたちが、堰をきったように自らの海外スパイ生活を発表しはじめたのだ。本書はその体験集。体験を語るのは、ソ連の最高学府を卒えた教養人たちで、たいてい二、三か国語を自由に操る。ほとんどの者が軍隊の階級では将官クラスだったエリート中のエリートだ。どの人物も大学卒業と同時にKGBに採用され、スパイ学校で特殊教育を受けた後、ジャーナリストや国連要員、在外貿易代表部員などの肩書で海外に赴任し、表看板と秘密の顔の二重生活を送った経歴の持ち主である。
 この本の原題は『KGBの世界都市案内』、初版が一九九六年の二巻本である。発売と同時にロシア国内では地下鉄構内でも売られるほどの人気となった。数か国語に翻訳されて、海外のマスコミでも評判になった。その秘密は、語り手がジェームズ・ボンドなどの姿を借りた架空の人物出はなくて、れっきとした本物の生身の元スパイだという点にある。
 一見ソフトな旅行案内の感じだが、読むほどにこれは元KGB要員がガイドブックの名に隠れてKGBの手法の一端を明かすとともに、冷酷無比のサデ イスト集団と思われていたソ連のスパイの中にも実は人間がいたということを、読者に直訴しているのではないかという気持ちになる。スパイの妻としての気苦労をさり気なく、淡々と描いている元ワシントン駐在諜報員の未亡人の手記も、CIAの行動描写を含めて興味深い。ベルリンを根拠地に活動していたスパイは、当時のソ連が西側のイメージをどのように国民に叩き込んでいたかを、モスクワから派遣されてきた人物を通じて軽妙に伝えている。東京では恰幅のよい寿司屋の主人を日本政府の高官と勘違いして、よい鴨とばかりに接近し、親密な交際を続けたドジなスパイもいたという。
 KGBのスパイはこれらの土地を舞台に、昼も夜も全神経をとぎすませ、絶えず捕り手の目や耳を意識し、息をひそめ、足音を忍ばせ、世界の舞台裏を歩き回る。どのスパイも赴任先の国民や文化を知れば知るほど、その国に愛着を感じ、ソ連帰国後も絶えず望郷の念にも似た気持ちであの町この町を思い出すと書いている。
 ソ連は、ソ連のスパイを「諜報員」、ソ連以外の国のスパイを「スパイ」と呼び分けていたが、第三者から見れば、いずれもスパイに変わりはない。国の内外にスパイ網を張りめぐらせていたソ連スパイの総元締めがKGBだった。KGBは、モスクワ市中心部にあったその本部所在地の名から一般に「ルビャンカ」と呼ばれ、在外諜報員が「中央」と言えばKGB本部を示していた。訳者は車でモスクワを走っていたときに、同乗のロシア人がKGBの建物を指差して、あれは通称「幼稚園」と言うんですよとブラックユーモアを披露してくれたことがある。ついでながら、最近サンクトペテルブルグで出版された『ソビエト用語詳解辞典』によると、民衆はKGBを「粗暴な強盗グループ」とか、「国事犯グループ」という句の頭文字に置き換えて皮肉っていたようだ。
 KGBには、一九一七年のロシア革命直後に保安と社会秩序の維持を目的に設置された全露反革命・サボタージュ取締非常委員会(ロシア語の略字でチェーカー)以来の歴史がある。五年後の一九二二年、チェーカーは内戦終了に伴い国家政治局(GPUゲーペーウー)と改称されたが、さらに数か月してソビエト連邦の結成により、反スパイ活動監視を主要任務とする統合国家政治局(OGPUオーペーゲーウー)が発足、一九三四年まで存続した。一九三四年、OGPUは内務人民委員部(NKVDエヌカーヴェーデー、後に内務省、MVDエムヴェーデーとなる)の設置でNKVDに組み込まれたが、一九四一年初めに独立して秘密警察を司る国家保安人民委員部(NKGBエヌカーゲーヴェー))となった。
 NKGBは数か月して独ソ戦開始により、対独スパイ戦に備えて再び内務人民委員部に吸収された。対独戦後半の一九四三年四月にNKGBが復活し、これはさらに第二次世界大戦終了の翌年国家保安省(MGBエムゲーヴェー)と改称された。その際、MGBはNKGBの秘密警察組織も継承した。
 一九五三年三月のスターリン死後、内務人民委員ベリヤの下でMGBとMVDが統合されたが、ベリヤが失脚して処刑されると、一九五四年三月にMGBはMVDから分離されてKGBとなった。
 KGBは反体制活動取り締まりをはじめ、国内の保安活動や対外情報活動などに専念する強大な権力機構となり、「泣く子も黙るKGB」と恐れられる存在だった。本書はまさにこのKGBから海外に派遣されていたソ連諜報員の回想記なのだが、戦慄するような血なまぐさい工作活動の記述は避けており、また、彼らが接触した各国市民については、差し支えない範囲でソフトに触れている感じた。KGBは過去の遺物とは言え、実態を完全に再現すれば、ロシア内外に及ぼす影響もはかり知れず、現時点ではまだ非常な制約、限界があるのだろう。
 ロシアの元首プーチン大統領は、レニングラード大学卒業後KGBに就職し、一九八四年から六年間KGB要員として東ドイツで働いた。今年三月末の人事異動で新たに国防相になったイワノフ氏は、KGBの対外諜報部門に十八年間勤務、そのうち六年から七年をイギリスやフィンランドで過ごした。このひとたちの赤裸々な回想録も、世界史の歩みと連動して、いつか新生ロシアで発表される時代が来るものと思いたい。
 十年前、世界は東西の冷戦終結と歓喜したのも束の間、二十一世紀早々、アメリカとロシアはそれぞれスパイ活動を理由に相手国の外交官多数の追放合戦を展開した。双方は先方の出方しだいで報復を中止する意向を表明したといわれるものの、人類最古の職業は今日明日にこの世から消え去るものでもなさそうだ。スパイは今この瞬間も気苦労だらけの毎日を送っていることだろう。