序にかえて

●にぎわいを創る

 私たちの暮らす都市は、時代に応じて常に変化を重ねている。そもそも静態 としてとどまることはなく、動態として捉えるべきものであろう。その様相を、 いかにすれば叙述し、記録することができるのか。
 ひとつの方法として、私は盛り場や商店街など、多くの人が訪れ楽しみを共 有する場所に着目したいと考えてきた。生活様式や消費行動のはやりすたりの なかで、ある規模以上に人が集住すると、必ず多くの人が集まる場所ができて くる。にぎわいの場が生まれる。
 しかしそのようなにぎわいも、おのずと生まれてくるものではない。店を構 え、商品を運ぶ人が必要なのは当然だ。路傍や小屋で芸を見せる人も要る。し かしその前に、そこに人を集め、にぎわいを生みだそうと思いついた人物がい たはずだ。人を呼び寄せる仕組みを用意し、人が楽しめる仕掛けや演出を計画 した人がいたはずである。
 祭礼の縁日では香具師がその役割を果たしたであろうし、近代都市では市長 や都市計画の専門家がその任を担ったことだろう。また鉄道会社の経営者たち も、駅前や郊外に人が集まる場所をつくりだしてきた。また観光地を発展させ ようと努めてきた人、商店街で営業をなす店主たちも、自分たちの商いにとど まらず、街の繁昌を願い、さまざまに工夫と努力を重ねてきたことはいうまで もない。
 また、にぎわいとは、ある意味で人と人とのつながりの総和だとみることも できる。そこにはさまざまなコミュニケーションが集成されている。楽しみ、 喜び、悲しみ、いさかい、そして出会いと別れなど、あらゆる種類の人と人と のつながり方が、そのなかに埋もれている。街の喧噪は、私たちが他者との関 係性を再確認する格好の舞台なのだ。街そのものではなく、にぎわいの担い手 である「人」の方にこそ、注目したいと考えるゆえんである。

●仕掛人の人物誌

 では近代の日本において、街のにぎわいを産みだすべく仕掛けてきた先人た ちは、いかなる演出を用意したのだろうか。またいかに来街者をもてなして、 人間関係の舞台を用意したのだろうか。
 本書は「人物誌」という形式、つまり短い評伝を重ねることから、総体とし て街のにぎわいを産み出した先人たちの発想法や手法を記録しようとする試み である。先人の活動のなかに、現在にも通用するヒントを読みとっていただけ れば幸いである。
 また本書では、しばしばこれまで高い評価を受けてきた人物、つまり国政に 関与した政治家や、大企業を興した経済人よりも、市井にあって街ににぎわい をもたらそうと努力してきた人物をとりあげたいと考えた。
 各章を読んでもらえば判るように、本書の登場人物には職人や商人が多い。 なかには、のちに各種団体の役員となる起業家や、市会議員や市長にまでなっ た「公人」も登場する。しかし彼等にしたところで、若き日の活動を調べると、 そもそもは一介の露店の商人であったり、あるいは多くの職人を使う土木建築 請負の親方であったりする。世に出て身を立て、功をなし名をあげるなかで、 「公」の役職を担なうようになったものである。

●博覧会へのまなざし

 さらに本書では、多岐におよぶ「にぎわいの仕掛人」のなかでも、多かれ少 なかれ博覧会と縁がある人物をできるだけ選び、その足跡を紹介している。 そもそも博覧会は産業振興の機会として、一八世紀後半の欧州で実施されるよ うになった催しである。工業・商業・農業・水産業などの産物、新たな発明品 や新製品、さらには技芸・学芸に関わる諸文化を展覧した。やがて世界各国か ら万物を集め縦覧する万国博覧会が提唱される。
 最初の万国博覧会は、一八五一年、ロンドンのハイドパークを会場に行われ た。鉄とガラスを素材とする展示館「水晶宮(クリスタルパレス)」は、新たな 建築空間の可能性を示すものとして話題になった。ついで一八五三年のニュー ヨーク博ではオーチス製のエレベーター、六七年のパリ博ではジーメンスの発 動機、七六年のフィラデルフィア博ではベルの電話機やエジソンの電信機、シ ンガーのミシンなどが話題となった。八九年のパリ博ではエッフェル塔が建立 され、一二〇〇個の電球によるイルミネーションがともされた。一九世紀の万 国博覧会は、来たるべき科学文明・工業文明の時代に望まれる発明品や試作品 を展示しつつ、便利なライフスタイルを提案する見本市会場という性格を帯び ていたわけだ。
 また万国博覧会を契機として、アフリカやアジア諸国の芸能・美術・工芸な どが広く紹介された。結果、たとえば太平洋地域の芸能、日本や中国の美術・ 工芸など、イベントを通じて西欧圏に影響をおよぼした例が少なくない。いっ ぽうで差別的と批判されるべき「異民族」そのものの展示も行われた。西欧列 強は植民地主義的なまなざしと同時に、非西洋への憧れをあいまぜつつ異文化 への好奇心を示したわけだ。

●ランカイ屋列伝

 文明開化の頃、この博覧会という物産会のありようが、西洋社会からわが国 にも紹介された。聞き慣れない名前の外来の催し物は、勧業の場であり、知識 を得る場であると同時に、人々にとって楽しみの場所でもあった。
 全国から集められた特産品に加えて、古今東西の宝物や珍しい品々が、各展 示館に陳列される。そのほかに踊りや曲馬など各種の余興、遊戯機械などのア トラクションが用意されることも多かった。もちろん先に挙げた西洋の事例を だすまでもなく、わが国にあっても自動車やエレベーター、冷蔵庫やテレビな ど、今では身近に当たり前にある工業製品も出品された。便利になる未来の生 活を予見させるこれらの品々も、はじめはすべて物珍しく、いわば一種の見世 物として博覧会に展示されていたのだ。
 回顧するならば、近代にあって、わが国で何度か博覧会が流行した時期があ る。まず明治のはじめ、日本各地で博覧会なるものが行われた。この時は主に 古器旧物を開陳する催事であった。ついで大正時代から昭和初期にかけて、と りわけ御大礼を祝う昭和三年前後には産業振興を主題とする博覧会が、また皇 紀二千六百年を記念する昭和十五年の前後には軍事啓蒙を目的とする博覧会が、 各地の主要都市で行われている。また戦後まもなく、今度は復興を祈念する意 味から何度目かの地方博ブームがあった。
 一部を除いて、本書に登場する先人たちは、生涯のいずれかの時期に、博覧 会との関わりを持っている。観光地の開発者であっても、地方にあって街の活 性化を果たそうと尽力した人物であっても、近代という時空においては、博覧 会というイベントとは無縁ではいられなかった。その集客力に誰もが注目し、 博覧会を契機として、みずからの事業を展開しようとしたからだ。
 とりわけ本書では、戦前にあって「博展業者」「ランカイ屋」などと呼ばれた 展示・装飾関係の職人たちの事績に多くの頁を割いている。彼らは全国的には 名の通っていない人たちかも知れないが、誰もを驚かし、楽しませようという その発想法や演出の方法論のなかには、今日においても通用しそうな目を見張 る何かが潜んでいると思えるのだ。
 そのあたりに、かねて筆者は注目してきた。しかしこれまで「ランカイ屋」 に関しての著述は、中川童二の名著『ランカイ屋一代』のほか、地方博覧会の 記録や郷土史の片隅などに見かけるに過ぎない。本書では、その種の資料を発 掘しつつ、史料を再評価して、各人の業績と人生を再構成した。以上が、本書 に近代日本における「ランカイ屋列伝」という側面を付与したいと考えた経緯 および理由である。