あとがき

 本書に収録した文章は、この六年ばかりの間に新聞や雑誌に書いてきた科学時評の一部である。読み直してみて、たった六年ばかりの間に、実にさまざまな科学・技術にかかわる事件が起こったものだと改めて実感する。同時に、たった六年しか経っていないのに、それらが遠い過去の出来事であったかのように思え、時間の流れの速さに驚いたりもする。私たちは加速された時間に追いかけられるようにアクセクと生きているのだなー、と思わざるを得ない。
 これが私にとって科学時評をまとめた最初の本だが、時評を書くメリットは自分の生き方を少しは客観的見られることにある。起こった事柄に対して自分はどう考えるか、本来あるべきスジは何なのか、そして自分自身それを言える資格があるのか、と最終的に自分の生き方に跳ね返ってくるからだ。さらに、こうして本にまとめると、過去に起こったことを再度現在の目で見直すことになるから、当時の見通しの甘さや考え方の狭さにも気づかされ、以後の自分が言ったことに対して首尾一貫しているかどうかも気になってくる。だから、時評を書くなどという危ない仕事はやらない方が気楽なのだが、現代を生きる私たちの世代の責任を明らかにしておきたいという思いもあって続けてきた。

 いつの時代でも、人は自分が生きた時代を特別な時代と思うのだろうけれど、私は二〇世紀の後半から二一世紀の前半にかけての一〇〇年間は人類史において特別な時代になるのではないかと考えている。五万年前にホモ・サピエンスとなって以来ずっと、人類はさまざまな工夫と発明によって生産力を高め続けてきた。右肩上がりの発展路線をひたすら歩んできたのである。特に、一八世紀後半の産業革命以後、科学・技術がこれに加わって指数関数的に生産力が増大した。その極限に達したのが二〇世紀後半であり、大量生産・大量消費・大量廃棄という私たちの生き様が地球の有限性という壁に直面することになった。このまま進めば人類の存続が困難であることが見え始めており、二一世紀前半には、人類は、五万年の歴史において初めて、発展路線からの撤退を迫られることになるのは確実である。その意味で、私たちは特別な時代を生きていると言えるのではないだろうか。いわば、坂道を上る時代から坂道を下る時代へと転換する峠にさしかかっているのだ。
 そう考えると、現代を生きる私たちは、人類が獲得すべき新しい英知を紡ぎ出さねばならない世代であり、これまでの坂道を上る時代の歩みとは異なった、坂道を下る時代に有効な歩き方を見つけることが求められている。同じ歩調のままで進めば、躓いて坂道を転がり落ちかねないからだ。とはいえ、人類が初めて経験することだから、そう簡単に新しい歩行法が見つかるわけではないし、見つかったとしても直ちにその歩行法が身につくわけでもない。「いっそう速く前へ進む」のが習い性になっている人類だから、「ゆっくり、時には後退もして」にすぎには切り替えられないからだ。一気に変えようとすれば全体主義にもなりかねない。二一世紀前半をかけて、新しい歩行法を模索し試行する時代とすればよい。そのような時代を迎えるための準備するのが私たちの世代の責任なのではないか、そんな風に考えてきたのである。

 といっても、大した智恵がある私ではない。せいぜい私にできることは、科学研究に携わってきた人間として、同時代に起こった科学・技術に関わる事柄を書き留め、そこから何か新しい時代へのヒントを探ることしかない。宇宙論という時空の彼方の研究をしているせいで浮世の義理とは縁遠く、あまり遠慮せずにものが言える立場にある。また、地上から宇宙を眺めるのと同じような感覚で宇宙から地上を眺める癖があるので、客観的に時代の相が読めるかもしれない。
 そう思いながら、さまざまな場所で文章を書いてきた。無責任な放談でしかないかもしれないが、こうしてまとめてみると、少しは自分自身が生きた科学・技術の時代の神髄を映し出しているかもしれないと思っている。少なくとも、二〇世紀の最後の一〇年に何が起こったか、それは未来に対しどんな警鐘を与えていたのか、を振り返る素材になるのではないか、と。最後に、丁寧な校閲をして下さった篠田里香さんに感謝したい。